幕末の江戸御碁盤師・高梨清兵衛作(安政5年1822)の組み立て式碁盤の複製計画をあたためていた広島市の古美術蒐集家が意匠登録出願も許可されたので囲碁と縁(ゆかり)が深い本因坊秀策生誕の地で制作・発売する計画を検討している。

この江戸組み立て碁盤のモデルは約180年前の清兵衛作で、碁盤の裏に江戸相生町御碁所碁盤師と銘がある。相生町といえば、秀策が入門した官賜碁所(かんしごどころ)本因坊家と同じ住所である。もっとも、秀策が三原・浅野藩から囲碁留学して江戸に下ったのは天保8年(1837)だから、この碁盤より年後のことになる。しかし、高梨清兵衛が碁所の碁盤師であったのだから親交があったはずで夢もふくらんでくる。

碁所と秀策

碁所の制度は、豊臣秀吉が本因坊算砂に与えたことに始まるが、制度として確立したのは徳川家康であった。官賜碁所は九段の棋力と識見のある名人でなければなれなかった。秀策が入門したころは第十二世本因坊丈和名人が就位していたが碁所争いが絶えなかった。

そこへ不世出の天賦の碁才を備えた秀策の出現に丈和は「我が門に風が吹く」と期待をかけた。秀策に漢学、書道など碁道以外の修養につとめさせた。秀策は少年時代に丈和から薫陶を受け碁力、品格とも成長して将来は碁所再興が約束されていた。だが、文久2年(1862)8月10日、34歳で第十五世本因坊位を目前にして中道に倒れた。

江戸文化の酔狂 携帯用碁盤発案

中国発祥の地といわれる碁は、縦19・横19の合わせて361目を一面とした。盤面は1年九星とする占い的な意味を持って9個の星が表示されている。これが現在も不変継承されてきた。

もっとも近年になって子女子や初心者のために分割した9路盤や13路盤が開発され普及してきた。

目的は異なるが、すでに江戸時代に4分割した碁盤があったわけである。1寸(約3センチ)の厚みの盤を組み立て猫足をつける。分割すれば桐箱に収納して持ち運びに便利。春の花の下、舟遊びに持ち込み、記念品や祝品として贈られたというから江戸文化の風流、酔狂がしのばれる。古くなった碁盤を材料に1寸幅に改良するのだから今風にいえばリサイクルである。

伝統への拘り

囲碁が日本に渡来して平安貴族や僧侶の間では遊びの道具とされた。なかでも女性が遊技している絵や着物の柄が残されている。戦国の世になると武将の間で精神面や戦略、相手の性格判断を鍛錬する遊具に愛用された。

日蓮碁譜によれば、武田信玄や松永弾正は盤面を戦場、石は兵力として対局したという戦国武人の思いがほとばしっている。清兵衛の作品複製(写真上)にこだわる理由の一つとして榧(かや)の古材や板目、柾目、桐箱を再生して折り目正しい囲碁の古典の世界へタイムスリップして碁聖秀策の境地を偲ぶよすがの一助になればという夢もある。