「橋本君輝昭に捧ぐ」司馬遼太郎の弔辞【4】

君は忠恕の二字に盡く

日本の近代国家に疑問

学生の徴兵猶予の恩典取り消し、いわゆる文化系学徒動員により入営の日が近づいて「どうせ死ぬのなら」と先輩や悪友に連れられて遊郭へ連れていってもらったという話を聞いたことがある。こんなことで、何のために死ぬのか、わかるはずがありません。今、その当時を振り返ると何だかむなしくて、かといってやることがない青春だったと司馬さんは回顧しています。


写真は、橋本組社長柳沢ゆきひこさん提供。


昭和18年(1943)9月、20歳。仮卒業で学徒出陣。兵庫県加古川の戦車第十九連隊に入営。ここで司馬さんと橋本さんは寝台戦友の仲になるわけですが、入営は本籍地の最寄りの連隊に配属されていたらしく、弓削島(愛媛県上島町)から東京商大(一ツ橋大)に在学中だった従兄弟は香川県丸亀の善通寺連隊に入営、初年兵教育を受けています。学徒兵は幹部候補生といわれる見習士官の道を選んだが古年次兵にいじめられ短期間で鍛え上げられました。

 

司馬さんは昭和19年4月、初年兵教育が終って満州の四平の戦車学校に送り込まれます。東京の機甲整備学校や千葉の戦車学校と同じ陸軍戦車の下級指揮官養成所です。同年12月には同校を卒業。見習士官として牡丹江(ぼたんこう)の戦車第一連隊に赴任します。対ソ用の戦車隊で陸上兵機の中でハイテクのかたまりのようなものですが「ソ連戦車の方がはるかに大きく、日本の国力に絶望的な思いをもって、初めて日本国家の近代性というものを『技術』の側面から考えるようになった」と述懐。

「これが歩兵ならば、運と勇敢さと用兵の妙によって、何とか敵に抵抗もできるかもしれない。しかし戦車隊は『物理的条件』だけで戦う兵隊だから、われわれは変な国に生まれてしまっているという、どうしようもない感じでした。日本の戦車隊は全戦線にわたって全滅したので、怖くなった陸軍は残り少なくなった戦車を関東平野の防衛のため呼び返したんですね。そんなことで、満州から釜山まで帰り新潟に入港。昭和20年(1945)内地に帰還、相馬ヶ原から栃木県佐野に移動、ここで終戦を迎えます。」=この項全集参照。

(庚午一生)

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