ふるさとの史跡をたずねて【41】長門明神(因島重井町久保)

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長門明神(因島重井町久保)

久保という地名は窪地であることからきている。それが平面的であれ、上下であれ窪んでいる地形は戦略上重要である。それも馬神山の南西であるから、馬神城を守った第三家老末永氏の関係者が住むのに適したところではなかったか。重井四廃寺の一つである正光寺(焼香寺)にも近いから古くから開けていたと思われる。

その久保に長門明神と呼ばれているが、誰を弔い祀ったものかわからない五輪塔がある。まん中の笠石の部分は宝筐印塔に似ている。一番下の自然石を除けば、因島三庄町一区の金成寺跡に似たものがある。

長門明神という名称が興味深い。しかし、長門守という官位をもった人を知らないから、謎は深まるばかりである。敢えて長門について考えれば、因島村上氏六代の吉充ということになる。吉充は秀吉の海賊禁止令の出たとき隠居して、弟のいた鞆城に住む。その後、慶長5年(1600)の毛利氏防長移封に伴い、長門国矢田間(現下関市豊北町矢玉)へ移り、後に備後に帰り、弓削、大島の北部余所国などを経て愛媛県佐方村(現菊間町)で生涯を終える。

かつて矢田間に近い下関市の北部で瓦そばを食べたことがある。そこは山陰地方と言ってもよい。吉充は暖かい瀬戸内が恋しくなって、浪人して帰ってきたのではないだろうか。

(写真・文 柏原林造)