追憶 ~甦る日々【10】二章 居場所探し

「希望と躓(つまず)き」の一年間、私は大学や街のいずれにも居場所を見つけられずに、目的も方向も定めることなく彷徨っていたにすぎない。大学に入学したのだから、学生や教授などの教職員と親交を結び、そこに居場所を築けばよいのにもかかわらず、その努力をしなかった。

当時、入学すると全ての学生は2年間、学部とは関係なく教養部に属し、そこで一般教養過程の講義を受けて単位を取得し、専門課程の学部に進級していった。

大学の教養部にも高校のクラス担任のような、チューターと呼ばれる教授がいて、そのもとに学生はグループ分けされた。私のチューターはフランス語の教授で、学生は19人いた。

入学した直後は、教授の呼びかけで記念写真を撮ったり、コンパ(飲み会)も開いた。また、学生たちで連れ立って社交ダンスを習ったり、スケートリンクにも行ったことがある。しかし、そうした関係はそれ以上に深まることもなく、やがて互いに疎遠になっていった。

大学のクラブ活動は活発だった。属したクラブが学生たちの格好の居場所になる場合が多い。寮の同室の先輩が私の状態を心配して、「空手部にでも入ったらどうだ。」と勧めてきた。彼は空手の有段者である。

これには、正直閉口した。私はテレビなどで格闘技を観るのは好きだが、体質的に武闘派ではない。先輩の誘いを断るためにやむを得ずに、親しくなった同じチューターの学生と野球部の見学に行った。彼は入部するつもりである。私は高校で硬式野球を経験しており、心が動けば入部を考えてみようと思っていた。

しかし、駄目だった。当時の広島大学の野球部は準硬式だったのである。私には、硬式野球をやったという変なプライドがあり、「今さら準硬式野球をやれるか!」と傲慢にも入部を拒否したのである。時代は移り、現在では硬式、準硬式、軟式の3種類の野球部があるようだ。

結局、山を歩くワンダーフォーゲル部への入部を決めた。しかし、もともと、先輩への言い訳という情けない動機である。寝袋や専用靴など道具一式を購入したところで退部してしまった。

ところが、1年も経つと少しは変化が起きるものである。2年になった私が卒業した先輩のあとを継いで、家庭教師を始めたのである。広島市の繁華街である八丁堀商店街にある商店の娘さんを受け持つことになった。

彼女は小学校5年生。教科は国語、算数、理科、社会だった。将来、小学校教師をめざしている身である、小学生を教えることなど容易いことだと安請け合いしてしまった。この錯覚に脂汗をかかされることになる。

私は初めて、他人、とりわけ小学生を教える難しさに直面したのである。私の学力は基本的に受験勉強でつちかったものである。しかし、それはそのままでは、小学生の家庭教師に役立たないことに気付いた。

それに加えて、母親の私への「勤務評定」が厳しかった。

「先生は国語を教えるのは上手ですが、理科は下手ですね。」とズゲズゲと裁定が下るのである。私は苦笑いするしかない。この教育ママは当然、娘にも厳しく当たり、小学生の彼女は私の前でしばしば、涙したものだ。

思いで深い家庭教師は1年半つづいた。やがて私の方から辞退することになる。ある日、私の指揮する学生のデモ隊が家庭教師先の店の前を通過したのである。それを、母親や教え子の娘も見ており、私はふたりに笑顔を送った。この時、この愛すべき親子とサヨナラしようと決めたのである。

(青木忠)

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