因島にて… つかみかけた確信【23】

文章化を急げ(1)
 毎年のことだが、7月28日の因島空襲記念日が近づいてくる頃になると特別の気持ちになってくる。そのことで頭のなかが一杯になるのだ。戦後65周年の今年はなおさらのことである。


 今急いでいるのは、空襲調査の成果の文章化である。私が「瀬戸内の太平洋戦争 因島空襲」を出版して二年余りが過ぎた。出版後明らかになった事実の公表は、すべて新聞各紙の記事に依存してきた。そうした状況を脱却し、自分自身でまとめねばならない、と思うようになった。
 自主出版本の役割は、因島空襲の大枠を社会に提示し、歴史的事実として確定することにあった。その後の二年間は、どれだけ多くの具体的事実を発掘できるかの苦闘の連続であった。新しい事実の発見は、さらに新しい調査を求めるようになった。いわば調査活動の永続化であった。
 2008年7月19日は転機になった。3月19日の空襲で右腕を失った板倉治男さんにやっとお会いできたのである。調査活動初期のころからお名前は存知あげていたが、まさか因島にお住まいであるとは知らなかったのだ。お話の内容は衝撃的で、その日の空襲の激しさを浮き彫りにするものであった。私は、次のようにメモした。
 ―空襲は午前8時30分から午前九時。土生町、上島町生名島、上島町弓削島の中間あたりの海上に停泊していた貨客船に、対潜水艦用零式水中聴音機の試運転のために電気技師として乗船していた。呉海軍工廠から指導官が一人来ていた。
 ブリッジにいたとき、天狗山の方からグラマン2機が攻撃してきた。耳と目を押さえ降りたタラップの途中で、自分の右腕がダラーと落ちた。下半身のない、内臓のない軍人の上半身が落ちてきた。砲台のあるデッキに爆弾が落ちて大きな穴が開き、その破片が腕に飛んできた。サロンデッキに5、6人の兵隊の死体が並んでいた。デッキ上の砲台から反撃し、その全員が狙われた。
 ズボンのベルト代わりの紐で止血し、日立因島病院で手術し、腕を切り落とした。
 3月19日の空襲についての会社側の発表は、「工員1人死亡、技師1人が右腕を失うなどの被害」というものである。おそらくここでいう技師が板倉治男さんのことであろう。しかし、軍人の被害には一切ふれていない。
 私は、板倉さんのお話を通じて初めて因島空襲における軍人の具体的な被害を聞いた。当時の造船所には多くの軍人が配置され、空襲時には空と陸との交戦があった。当然、軍人に多くの犠牲者が出たはずである。しかしその事実は、一切公表されていなかった。
 板倉さんとお会いした直後、長崎市の女性から、「私の祖父は軍人で、因島空襲において船に乗っていて戦死した」という、お電話をいただいた。戸籍謄本には、「昭和20年7月28日時刻不詳、瀬戸内海因島で戦死」と記されている、という。
 右腕を失った電気技師の板倉さんの戦後は、苦難の日々だったと容易に想像される。負傷後、因島の重井村で療養し、昭和21年2月に復職した。負傷状況について、その当時の工場長名による証明書が出されている。昭和17年からかけた厚生年金から傷害年金が出たという。私は思わず、それ以外に特別な補償は出なかったのですかとお尋ねした。「補償をもらおうとは思わなかった。そうすると国が潰れると思った」、という返事がもどってきた。
 戦後、板倉さんは結婚し二子をもうけたが、家族に空襲のことをほとんど話すことはなかった。しかし面識のない私が電話で趣旨を述べると、快く会見に応じてくれた。さらに自宅近くの喫茶店で新聞記者の取材に応じてくれた。その内容は、山陽新聞(2008年7月26日)に大きく掲載された。

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