父のアルバム【49】第六章 八朔と生きる

私の家族四人が東京からUターンし、父と同居することになった。平成3年のことで、父は85歳であった。しかし、この同居は父にはストレスになり、2年たらずで私たちは隣町の私の継いだ家に引っ越した。

当時の父は、母との死別の打撃からようやく立ち直り、マイペースの生活を作り上げていた。畑に行くことが日課で、親しい人や義兄に手伝ってもらいながら農作業をつづけていた。

炊事、洗濯、風呂などの日常生活も自分でこなしていたようである。風呂は五右衛門風呂で、剪定した八朔の枝木を畑から持ち帰り、沸かしていた。

そこに私の家族4人が転がり込んだのである。ふたりの子供は3歳と2歳だった。父の生活のペースを乱してしまった。やがて父は2階の自室と畑にこもるようになる。そしてついには、「ワシは畑で寝泊りする」とまで言い出したのである。もはや同居生活は限界だった。

私たちの家族が隣町に移ってから、父に平穏な生活が戻ってきた。父には独りで生活する能力があり、そうした生活を楽しんでいるように見えた。以前にも関西に住む長兄からの同居の誘いを断ったという。

父は自分の生活スタイルを貫くことにこだわった。子供たちの忠告に耳を貸すことはなかった。息子の下で暮らすことなどもともと無理だったのだ。私は、そうしたかたくなな姿勢に父らしさを感じて納得し、そっと外から静かに見守ることにしたのである。

訃報は突然だった。実家近くの私の仕事場にそれは届いた。検査入院を翌日に控えた日に父は逝った。父は元気だった。まったく予期しない報せだった。享年93歳。明治に生まれ、大正、昭和、平成をたくましく生き抜いたひとりの男は旅立ったのである。

父はUターンした私に、たびたび「生まれた三原に帰りたい」と弱音を吐いたことがある。私は返す言葉が見つからず、黙っているしかなかった。

父が生まれ育った三原の実家の前には田んぼが広がっていた。おそらく幼少のころから、そこでの農作業で鍛えられながら成長していったのであろう。父の手は節くれだち、作業用の手袋不要のグローブのようだった。

父は死ぬ直前まで愛する畑に向った。たとえ、そこで息絶えたとしても構わないという覚悟をしていたのではないだろうか。土に生まれ育った男は、土に戻って行ったのである。

(青木忠)

畑に行くことは父にとって生きている証だった。杖をつき、坂道を登って畑に向う。

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