因島にて… つかみかけた確信【22】

戦後65周年の日々
 今年は太平洋戦争が終了して65周年になる。やはり、その年の日々は私にとっても特別である。私は、生まれ故郷で人生最後の仕事をしようと、家族とともに住み直すことにした。その好期の到来を直感し、それを逃がしてなるものかと、秘めた想いの実行を決断した。


 その発端は、昨年11月の矢川光則氏と竹本宗文氏のわが家への訪問である。ともに被爆二世である二人は、今年の9月にニューヨークで被爆ピアノコンサートを行なうために活動をつづけている。ピアノ調律師である矢川氏は、すでに全国で、400回を超える被爆ピアノコンサートを開催しているが、最初の海外公演の場を、9・11米国同時多発テロの地であるニューヨークに設定した。
 個人的には、矢川氏は友人であり、恩人でもある。彼とは、私が因島で開催したジャズコンサートで知り合い、意気投合した。その翌年、因島空襲の調査を開始するにあたって、因島三庄町に彼が持ってきてくれた被爆ピアノを使い、防空壕コンサートを開いた。
 私は、ニューヨークへ飛び立とうしている友人の苦労が理解できた。他人ごとではなかった。思い立って電話を入れ、全面的な協力を申し入れた。それに応えて、二人が打ち合わせのために因島に訪ねてきたのだ。
 戦後65周年のこの年、様々なひと達の想いの突出が目立ち始めている。それらは、私をも巻き込みながら一つの流れとなっている。最近、東京大空襲訴訟原告団から私のもとに送られてきた3月11日の東京新聞の記事には次のように記されている。
 ―東京大空襲から65年の10日、全国各地の空襲被害者が、国による援護立法を求める連絡組織づくりに動きだした。国に謝罪と賠償を求めている東京大空襲訴訟の原告団が、同日開いた院内集会後、大阪や名古屋の被害者と確認した。
 また同じ記事で、東京空襲犠牲者遺族会(会員約800人)の創立10周年のつどいが開かれたことが報道されている。遺体も見つからない犠牲者の氏名を記録する運動を機に2001年に結成されたという。私が因島空襲の調査を決心したのはちょうどそのころである。苦労が偲ばれる。
 私は今年初めて、神奈川県横須賀市観音崎公園にある「戦没船員の碑」の前に立とうとしている。因島空襲で犠牲となった船員の慰霊のためである。感無量である。
 この碑が建立されたのは、1971年3月のことである。海運・水産関係をはじめ多くの国民から1億4000余円もの募金が寄せられたという。そしてこの年から、その碑の前で追悼式が開催され始めた。それに先立ち、戦没船員の実態調査が進められた。当時の厚生省援護局調査課および業務課二課の原簿に基づいて行なわれ、その後、船会社や遺族などへの照合で補完され、現在、戦没船員は6万609人とされている。
 空襲の地である因島も戦後65周年を迎えている。因島空襲の規模は決して小さくない。当時の日立造船の工場には1万人近くの人が働いていたという。今だお会いできていないご遺族や体験者が多くいることは確実である。新しい出会いや真実の発見を予感する日々である。
 私はいつも思うのだ。因島という島は、日本の近代史とともに発展してきたのだ。沖縄戦を例外として、太平洋戦争における本土空襲において、ひとつの島が攻撃目標になったのは因島だけではないか。なぜ瀬戸内海のひとつの島が、ここまで攻撃されねばならなかったのか。実際に生まれ育った私たちの実感を大きく超えたところに、島の歴史上の実像があるのではないか。
 島の近代史はほとんど記述に残っていない。歴史認識が定まらないところに発展の展望が見出されるはずがないではないか。

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