因島にて… つかみかけた確信【21】

浮かび上がる事実
 諦めなければ予想もしなかった事実と出会うものだ。収穫やせん定などの農作業の山が越したので、気をひきしめて夏の空襲記念日に向かって、調査活動を強めたところである。


 今年の2月21日、因島土生町にあるホテル・ナティーク城山直下の巨大な防空壕跡に初めて入った。翌月4日、調査仲間と新聞記者とともに再び訪ねた。その時の様子は、3月15日の山陽新聞に詳しく記されている。
 私が入った因島の防空壕は、これが2カ所目である。最初は、空襲下に赤子の自分が連れて行かれた生まれ故郷のものであったが、今回のものは、様相が随分違った。あまりにも大きく、レンガで敷き詰められた天井はただ見上げるばかりであった。私は、戦時がそのまま封印されていると感じた。極めて保存価値の高い戦争遺跡である。
 ホテルは小さな城山(じょうやま)という小山の上に建てられている。その山にはもともと14カ所に防空壕が掘られていたという。それらはすべて、日立造船因島工場の本部用のものだったと言われている。現在はそのうち2カ所を除いて封鎖されている。現存している二つの入口は中で繋がっており、U字形の壕になっている。
 不思議なもので、まもなくしてその近くにあったと思われる、ひとつの防空壕内で撮影した記念写真を見ることになった。4月13日のことで、およそ30人の集合写真に対面したのだ。6人の白いハチマキ姿の少女が写っている。学徒動員された土生高等女学校の女学生だ。そのなかのおひとりのアルバムに残っていたのだ。上部には「勤勞課待避壕勤勞奉仕」「昭和19年12月8日」という文字が白抜きで記されている。
 ということは、敗戦の1年前の開戦記念日に勤労課全員が防空壕整備のための労働奉仕をしたのだろう。写真の所有者に私は思わず、「みなさんが明るい顔をしていますね。女学生がきれいですね」と言った。戦時下にも青春があったのだと、理解した。その時代の暗さばかりを想像していた私にとっては意外であった。
 私はこの日、もう一人の方を訪ねた。空襲当時、自宅が日立造船因島工場のすぐそばにあったという。お会いして驚いたことに、その方の自宅を含めて並んで立っていた3軒の民家が空襲の爆風で全壊したことを告げられた。その現場はバス通り沿いで、子どものころから何回も通った場所である。工場周辺にも被害が及んだことは知っていたが、これだけの影響があったとは。空襲の規模の大きさを実感した。
 8年間にわたり空襲調査をつづけてきた私が知っているのは、文字通り氷山の一角であることを思い知った。もしかして因島空襲の実態は、私の想定を超えて規模が大きいのかもしれない。だから連続して知らなかった事実に出会うことになるのだ。さらに、その歴史的事実の渦の中に私の全身は引きずり込まれており、そのことを調査しぬくことなしには、そこから抜け出すことができないのだ、とさえ思った。
 4月20日、思わぬ方から電話をいただいた。先日届いた東京大空襲訴訟原告団から届いたアンケートへの回答を、私が著した「瀬戸内の太平洋戦争 因島空襲」を添えて送ったことへの謝礼の電話であった。声の主は男性で、遺族会の副会長と名乗った。
 まさかのことであった。こんなにも早く、東京からのアクションがあるとは思わなかった。だが受話器での会話が始まるや、すっかり打ち解けることができた。6月4日に神奈川県横須賀市の観音崎公園で行なわれる戦没船員追悼式に出席することを告げ、その際に東京の事務所に訪問したいと申し入れた。
 私の育った戦後という時代が煮詰まってきている、と思わざるを得ない。誰もそれを止めることはできない。
(青木忠)

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