父のアルバム【45】第六章 八朔と生きる

わが家の畑には家族の歴史が沁みこんでいる。それを中心的に担った曽祖父、祖父、父の生き様がそこに刻みこまれていると言えよう。

3人とも、女系家族ゆえに養子として迎えられた。曽祖父は明治16年、愛媛県生名村から、祖父は明治43年、福島県鏡石村から、父は昭和6年、御調郡山中村(現在の三原市)から入籍した。

わが家の農はおおざっぱに言って2つの時期に分けられる。前半が曽祖父とそれを引き継いだ祖父の時期であり、後半は父が担った時期である。

昭和5年に家督を相続した祖父は船乗りであったが、耕作に励み、家族の生活を大いに助けた。とりわけ戦時、戦後の食糧難の時代に家族を飢えから救った。

それに対して父の担った農業は、時代の変遷も影響して様相が一変した。生活のための農業ではなく、父の生きがいとしてのそれであった。いわば、ロマンとしての農業である。

私が中学に入学するや家族は実家に戻り、祖父との同居が始まった。このころ、祖父はひとりで畑仕事を行い、収穫など多忙な時には近所の主婦の力を借りていた。父は全く畑にはタッチしなかった。中学生の次兄や私は祖父の農作業を手伝い、鍛えられた。

柑橘畑は長者ケ谷という奥まったところにあり、当然ながら労働は厳しいものになった。そこに行くにはかなりの覚悟を要した。

谷底から数十メートル上がった斜面に道がついていた。それは、この谷に残る平家落人伝説を伺わせる細道だった。狭いうえに2カ所に急坂があった。人ひとりが歩ける道幅なので、大八車も通れない。運搬は全て人力だった。肥料や薪などは背負子(しょいこ)を使った。柑橘や芋など収穫物はイグリに入れ、サス(天秤棒)で担いで運んだ。野球少年だった私はもっぱら背負子の係りだった。肥料や薪など重い物を背中にしょって汗まみれになりながら細い坂道を上り下りしたものだ。

そのころのほろ苦い思い出がある。他界した祖母がさつま芋を入れたイグリをサスで担ぎ坂道を下る姿が私の遠い記憶に残っていた。そこで、祖母にできるのなら自分でもできるとやってみたのである。結果はみじめだった。くいこむサスの重みに肩が悲鳴をあげた。農作業は力でなく、技と粘りが肝心だと知ったのである。

柑橘の消毒作業も現在のモーターと違って、手押しのポンプだった。その作業の時には、次兄と私がその手押し役だった。全ての作業が終わるのに2日間。2人交代で押すのだが、かなりの苦痛を伴った。特に夏場の炎天下の消毒作業は地獄だった。もっともノズルを持って噴霧する祖父が一番重労働のはずなのだが、祖父が鬼にさえ思えてきて、辛くてしょうがなかった。

やがて祖父が心血を注いだ畑から離れる時が近づいてきた。あの屈強な祖父も年齢には勝てず、80歳を過ぎたころから次第に畑に行かなくなったようだ。そして85歳で死んだ。

(青木忠)

船乗りだった祖父は畑仕事にも汗を流した。猟銃でキジを撃ち、釣りも上手だった。

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