因島にて… つかみかけた確信【20】

二通の案内状
 私は、「論語」の「義を見てせざるは勇無きなり」の言葉が好きだ。「広辞苑」によれば、「義が貴い人道であることを知りながら、これを実行しないのは勇気がないものである」とある。対義語として「触らぬ神に祟りなし」があげられる。


 最近、因島空襲の調査をつづけている私のもとに、東京から連絡がつづいた。ひとつは、東京大空襲訴訟原告団からのものだ。交流がなかったので少々驚いた。私のことをどこで知ったのだろうかとも思った。角封筒のなかには、パンフレットや呼びかけ文、空襲被害者が全国組織を作ろうとしていることを記した新聞記事などが入っていた。
 私の家内は、1945年3月10日にあった東京大空襲の犠牲者の家族に生まれた。その日、米軍の絨毯(じゅうたん)無差別爆撃で十万人もの命が奪われた。家内の出身の家族は、江東区亀戸に住んでおり、母親と二人の娘が死亡した。遺骨どころか、焼夷弾に焼き尽くされて生きていた痕跡もほとんど残らなかった。千葉県松戸市にある墓には、瓶に入れられた服の切れ端だけが収められているという。仕事で外出中の父親と山形に学童疎開中の末娘は助かった。再婚した両親の間に家内は埼玉県浦和市に生まれ、埼玉県川越市に住む夫婦の養女になった。
 もうひとつの便りは、財団法人・日本殉職船員顕彰会からのものである。毎年、神奈川県横須賀市観音崎公園で行なわれている、戦没・殉職船員追悼式への案内状が届いたのだ。これは初めてのことである。
 日本の海運・水産業は、太平洋戦争において六万余人の戦没船員を出した。いわゆる戦時徴用船の犠牲者である。それは、軍人の損耗率(戦争に参加した員数と戦死者の比率)をはるかにに超える戦死率43パーセントとも言われている。因島空襲においても三隻の徴用船が沈没させられ二桁の船員が犠牲になった。
 ところが犠牲者たちの戦後は恵まれなかった。全国戦没船員遺族会常任理事・泉谷迪氏の次の文章が残っている。
 ―戦時中、すべての船員は国家徴用されて軍属の身分にありましたが、戦後1952年、軍人軍属の戦没者補償のため「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定されたとき、船員軍属がその適用から除外されました。「戦時中は輸送戦士だとか名誉の戦死だとか煽てておいて今となって除外するとは、船員は犬死か」と憤懣やるかたない船員家族が連絡をとりあい、船員を援護法に適用させるべく猛運動を起し、その運動体として結成されたのが戦没船員遺族会です。
 私は因島空襲の調査の過程で昨年、財団法人・日本殉職船員顕彰会という団体を知った。大戦で犠牲となった船員と、戦後海難などで殉職した船員の慰霊とその功績を伝える事業を行なっている。その最大のものが、太平洋の地平線が望まれる神奈川県横須賀市観音崎公園に建立された「戦没船員の碑」の前で毎年行なわれる、追悼式である。それは今年で40回目を迎える。
 私は、「二通の案内状」が届いたことを光栄と感じるとともに、戦後65年という時代の重さを痛切に思う。とりわけ戦没・殉職船員追悼式には万難を排して出席したい。因島空襲で犠牲になった船員の慰霊をするとともに、その遺族との出会いを願っている。
 戦後も65年過ぎた。あの大戦を体験し、それを語れる人たちも少なくなってきた。その調査もギリギリのところにまできている。しかし諦めるときではない。むしろこうした時期だからこそ予想できない真実が浮上するのではないか。それを予感させる兆候を感ずる日々である。
 因島は空襲記念日というべき日を有している。私は7月28日とすべきだと考える。六五回目のその日に向かって今年も歩んで行くのだ。

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