父のアルバム【43】第五章 苦難を越えて

私の大学受験戦争は高校1年の2学期から始まり、2年の秋に頂点に達し、それ以後、その水準を辛うじて維持することでめでたく最終目標に到着した。この過程での母の存在は大きく、母としてできる協力を全てやってくれた。

日頃から厳しい母であったが、受験勉強に関してなおさらそうであった。私の顔を見るや「鬼」の形相をして、「勉強しなさい」と叱咤激励した。彼女の基本姿勢は一貫していた。それは、褒めて成長させるというのではなく、叱って成長させるというものであった。褒められた記憶はほとんどない。

小学校六年の時のことである。私は急速に身長も伸び、周囲の人から「大きくなったなあ」としきりに声をかけられるようになった。ところが母に言わせれば、「ひょろひょろと大きくなって」となるのだ。中学生になっても、高校生になっても何一つ態度を変えなかった。

しかし、不思議なもので、母の姿勢にあまり反発を感じなかった。むしろ、受験勉強には大きな支えになったのである。とりわけ、母の存在は家庭学習を充実させるための強制力になった。

ところで私の受験勉強にとって、野球部活動との両立ということのほかにもう一つ解決しなければならない問題があった。それは、私がテレビ中毒であったということである。当時のテレビ番組はアメリカから持ち込まれた西部劇などのドラマが全盛で、私もそれらに夢中になった。

当然にも母はテレビを観てはならないと言ってきた。それに対して私は、「受験勉強も!テレビも!」と食い下がり、挙句の果てに「テレビ番組式受験勉強」を提案したのである。

私の観たい番組の時間帯は毎日、午後7時からの30分間と午後9時からの30分間にあった。その時間にテレビを観ながら夕食をし、お茶を飲むことにしたのである。

この効果は抜群であった。実に規則的に家庭学習がはかどったのである。建前では、勉強の気分転換にテレビを観るというところであろうが、実際のところは、テレビを観たいから勉強したのであろう。

このことでは母に苦労をかけてしまった。2度にわたって夕食の準備をさせたのである。1度目は、父と祖父のために、2度目は息子のために。振り返って見るに私は、大学受験に名を借りた「暴君」だったに違いない。高校の3年間、家族は私を中心に回っていたのであろう。はれものにさわるような想いで私を見守り、支えてくれていたのである。

大学受験は私の人生にとって最初の関門であった。にもかかわらず当初、それを突破することから逃げようとした。もしもそのままであったなら、私はその後も逃げつづけたであろう。それを正したのは、両親の力に他ならない。今やそれを率直に認めざるを得ない。

親の心配をよそに、スポーツに熱中した。因島高校1年の秋の全校マラソンでの筆者。

(青木忠)

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