父のアルバム【41】第五章 苦難を越えて

保育所長を退職した行は、家庭を守ることに専念した。夫を公私両面で支えるとともに、五人の子供の就職、進学、結婚に力を入れた。

父が椋浦小学校から田熊小学校に転任した年に行は退職した。全校生徒50人の小規模校から千人規模の学校への転任であったから、その環境の変化に気苦労があったことであろう。

今回の写真は、校長2年目の田熊小学校の校舎前で写した、昭和34年元旦のものである。父は次のような写真説明を付けている。

―田熊小校長時代。34・1・1 教師の新年あいさつ互礼会には33・34新年、重箱詰の20人分の宴会用を徹夜で手づくりして持参、よろこばれる。記念2人で。

行は2年連続で父の勤める小学校のために料理の腕前を発揮したのである。中学生であった当時の私は、彼女の料理の味に驚嘆していた。普段の家庭料理は言うまでもないが、来客に出すご馳走は見事であった。度々、学校関係者を自宅に招いては料理を振舞っていた記憶がある。

父は2年で田熊小学校校長を辞して教育委員会に移り、嘱託を含め昭和41年3月まで課長職を務めた。ここまで仕事を全うできたのは、行の献身的な協力があればこそだと思う。

兄や姉は次々と巣立って行った。長兄は東京の私立大学を卒業後、大阪に本社がある日立造船系の運輸会社に就職した。

長女は高校卒業後、電電公社に就職し、地元で電話交換手になった。やがて大阪の男性のもとへ嫁いだ。次女は高校卒業後に地元で就職し、大阪で働く地元出身の男性と結婚した。

私より1学年上の次兄は、愛知県の専門学校に進み、卒業後地元企業に就職した。兄や姉たちはいずれも堅実な人生コースを歩み、今日も健在である。

両親は兄と姉の場合と違って、私の進路について苦労した。ふたりは、私が小学校のころ、私の進路を決めたのではないか。教師一筋の父の跡継ぎとして私を指名し、広島大学教育学部への進学を望むようになった。

当時、「東の東京教育大、西の広島大」と言われており、広島県下の高校生にとって広島大に進むのが教師になる最良のコースとされた。父が広島大教育学部の前身である広島初等師範出身であるから、なおさらそうであった。

しかし私は将来の進路など無頓着で、熱中していた野球をすることしか関心を示さなかった。両親は中学生の間は私に好きなようにさせた。母は野球の試合の日には、米とパン2種類の弁当を作り応援してくれた。

ところが私が地元の高校に入学するや両親の態度は豹変した。硬式野球部入部を許さず、受験勉強に専念することを強く求めたのである。

田熊小学校校長時代のふたり。元日の行事の際に校舎前で写したものである。

(青木忠)

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