時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【64】秀策の名声を高めた人たち(2)

歳上の弟弟子石谷廣策
 石谷廣策(いしがやこうさく)の人物像は折あるごとにふれてきましたが、一口に言って秀策より11歳年長でありながら本因坊家への入門が遅かったこともあって弟弟子の立場でした。そして秀策が生存中は物心両面で迷惑をかけたことは秀策が故郷に出した手紙のなかから前述したようなことです。


 石谷の略歴をまとめてみますと、文政元年(1818)安芸国能美島中村(現広島県江田島市)生まれ。天保13年(42)初段、14年(43)秀策を師友とする。慶応2年(66)秀策顕彰碑を備後松浜(現三原市糸崎神社境内)に建てる。明治9年(76)五段。明治30年(97)秀策の打ち碁集「敲玉余韻」を上梓。明治39年(1906)没。享年88歳。
 そこで登場してくるのが石谷と同じ能美島の出身で徳川幕府崩壊で囲碁の家本制度がなくなった後、近代囲碁界に貢献した初代日本棋院理事長瀬越憲作名誉九段。昭和44年発刊の「碁聖本因坊秀策」(樫本清人著)の序文に次のように寄稿されています。
 後世から碁聖と仰がれる人は、古今を通じて第四世本因坊道策名人と第十四世本因坊秀和の跡目で34歳七段で亡くなった秀策の二人である。それほど秀策は碁界における偉大な存在である。
 呉清源九段がその天才を認められて日本に留学するに至った動機について少し所感を述べて見たい。
 呉の父君の呉毅は、往年帝大(今の東大)の法学部に留学して、その間囲碁に趣味を持って方円社に通って碁を習い、幾多の碁書を携えて帰国し、呉の幼小の時より碁を教えた。呉はその碁書のうちから、石谷広策の遺書秀策の碁譜百局を集録した敲玉余韻を選んで熱心に研究した。
 私は呉が井上孝平五段と打った碁譜五曲を調べて見て、碁聖秀策の再来だと感嘆して、当時の知名有志の方々を説いて、これが日本に留学する動機となった。
 春秋の筆法を以てすれば敲玉余韻の遺著なかりせば呉清源という天才も現れなかったかも知れない。
 秀策の遺した碁譜は、それほど後進を導くのに効果をあげているといえる。
瀬越憲作 明治22年5月23日、広島県佐伯郡能美村(現江田島市)生まれ。憲法発布の年だったから「憲作」と命名。5歳から碁を学び、20歳で上京、方円社に入門。昭和30年には名誉九段にのぼりつめ、のちに紫綬褒章、勲二等瑞宝賞。昭和47年83歳で死去。
囲碁発展を願い国内・国際普及に尽力。江戸時代の「御城碁譜」全10巻「明治碁譜」の編集や「瀬越囲碁教本」など技術書を著し、近代碁の礎を築きました。
(庚午一生)

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