父のアルバム【40】第五章 苦難を越えて
今回掲載した写真は、アルバムの「2人で」というタイトルのついたページに収録されている。特別な想いがこもっていたのであろう、「空襲20・7・28 残った納屋のこわれかかった家の前 36年1月」との説明がついている。
実はこの写真と同じものが私のアルバムにもある。しかし、写真説明はあっさりしたもので、「1961・1月3日 姉夫婦と長兄を迎えて」というものである。
この父母のツーショットの写真は、私が高校1年の正月に、家族とともに写した写真のなかの一枚であるが、撮影時の父と私の想いの落差を示している。
この日、写真に納まったのは、祖父、父母、長兄、次兄、長姉夫婦、次姉、そして私の九人である。空襲で生き埋めになり、救出された祖母、母、私のうち、写っているのは私だけである。
やはり、わが家族が一堂に会して撮影するのに相応しい場所は、ここしかないのである。結局、空襲で全壊した母屋の跡地ということになるのだろう。そこには、2階建ての納屋が昔のまま残った。写真の右側にある柿の木も生きのびた。全壊した母屋の跡は野菜畑になった。
昭和20年7月28日の空襲抜きにわが家族を語ることはできない。空襲現場に立つとき家族全員の想いは様々であったに違いない。
祖父の思いは特別であろう。空襲の後も畑の収穫物を収納するために納屋を使いつづけた。ここに来るたびに空襲の悪夢を思い起こしたことだろう。なにしろ自分の妻、長女、孫の3人が生死の境を彷徨ったのだから。
兄や姉たちも全壊した自宅のことを忘れることができなかったはずだ。長姉は私に言った。
「わたしは爆撃で壊れた家の間取りを今でも覚えている。あんたがどの部屋で生まれたのかも目に浮かぶわ。」
次姉も悔しさを私に告げたことがある。
「空襲でやられてウチは駄目になったんよ。それまでは良かったんで。爆撃のあと雨が降って、野ざらしのわたしの持ち物がビチャビチャになってね。」
空襲を受けたのが生後9カ月なのでやむを得ないのだが、子供たちのなかで生家を覚えていないのは私ひとりである。だからその現場にきてもピンとこないのである。私にとってそこは、豊かに実る野菜畑であり、柿の木のある納屋のある場所だった。
(青木忠)
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