空襲の子【12】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 県戦災史の中の因島

青木忠

200610120007.jpg 先日、因島田熊町のたなか書店の田中伸幸氏から貴重な資料の提供を受けた。昭和63年に発行された「広島県戦災史」(編集者・広島県、発行所・第一法規出版)=写真=で4700円もする高価なものである。
 たまたま書店に立ち寄ったわたしの高校2年の息子に、「活用して下さい」という伝言をそえてことづけて下さった。とても有り難く、早速読ませていただいた。


 県の戦災史となると当然にも、広島への原爆投下、呉空襲、福山空襲、大久野島の毒ガス被害が中心であるが、因島の記述もわずかながら掲載されている。しかし因島空襲について誠実な調査などの形跡がみられず致命的な間違いを犯している。県による編集であるにもかかわらず因島市からの資料提供は一切なく、日立造船(株)因島工場からのみである。行政としての被災調査はなされていなかったと断言しても間違いなさそうである。あらためて怒りを禁じえない。
 太平洋戦争末期、本土決戦にそなえて因島には陸軍船舶部隊の機動輸送第中隊が配置された。司令部は広島市宇品にあり、全軍の船舶輸送作戦にあたった。
 また昭和20年5月、地区特設警備隊が創設され、土生町にも第特設警備隊(定員305人)がおかれた。
 さらに日立造船因島造船所、同向島造船所、尾道造船所の民営工場が軍需工場に指定された。これらの工場は正規工員のみでは不足し、懲用工・艇身隊・学徒動員などの労働力を多数使用していた。
 太平洋戦争期には、「強力な戦時計画造船の急速な要請を受け、重点的な施設の拡充」(日立造船八十年史)が進められ、同造船所は、右の計画造船に加えて積極的に艦艇の建造にふみきった。敗戦時において広島工場の従業員数は、因島6423人、向島2340人、計8763人に膨れ上がっていた。
 「米国戦略爆撃調査団報告書」によると米軍は、航空兵力により日本国土の奥深く侵攻し、軍事的工業組織および軍需的経済基盤を徹底的に粉砕するとともに、日本人の抗戦意欲を喪失させることを狙った。
 因島空襲は呉空襲と一体化して敢行された。昭和20年3月19日朝、因島工場にグラマンが飛来。修繕を終えて出港しつつあった帝立丸が機銃掃射をうけ、工員1人死亡、技師1人が重傷を負った。
 7月28日、呉軍港中心に最後の本格的な空襲が行なわれた。この日、因島も最大の空襲を受けた。土生町から三庄町にわたる日立因島工場と民家が攻撃対象になり、100人をはるかに超す犠牲者が出たともいわれている。
 この点について県戦災史は、陸軍の日寅丸の転覆と曳船2隻の沈没にふれたうえで、「工場の施設に損害も受けたが、ほとんど操業に影響はなかった」(日立造船75年史)をそのまま引用し、多数の死者が出た事実を見過ごしている。
 広島、呉、福山の調査内容とくらべて、あまりにも対照的ではないか。それゆえ、62年目の因島空襲犠牲者慰霊祭を呼びかけざるをえない。
(続く)

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