時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【56】碁好きの歴史上人物 「芭蕉は碁を打ったか」

(前号につづく)「目を明ける」には、自分の石が生きる手段を見つけたとも解釈できます。碁を詠んだ句の中で芭蕉のように碁の手順や手段を詠み込んだ例は珍しく小林一茶は「山寺は碁の秋里は麦の秋」の一句が残っているだけだといわれています。

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秀吉と家康が囲んだ碁盤

京都で学生時代は上京区船岡山の中腹にあった織田信長神社近くの下宿から烏丸通りに出て大徳寺の前を通るのが日常の通学路でした。ところが信長神社も大徳寺も一度も足を踏み入れたことはありませんでした。学生時代を京都で過ごしたというだけで名所旧跡に無縁だったのが普通の学生のようです。むしろ地方の観光好きな人たちの方が京都人より詳しいこともあります。

ところで12月5日、縁あって京都・大徳寺を訪れ豊臣秀吉と徳川家康が碁を囲んだと伝えられる碁盤を拝見、往時を偲ぶことができました。師走に入った京都の街路はイチョウ並木が黄色く色づき大徳寺の境内のカエデは紅葉が初冬のこもれ日にはえ、落ち葉しぐれに目をうばわれながらの拝観でした。

信長が本能寺の変で倒れてから天下統一の夢を継いだのが秀吉ですが、僧・日海(のちの初代本因坊算砂)に「朱印状」を与え20石20人扶持を約束したのも秀吉でした。これが権力者によって職業囲碁家認知第1号といえるものになったわけで、いまでいうプロ棋士誕生ということになります。その意味で秀吉は囲碁界に対しての功績は大きいといえるでしょう。

日海・本因坊算砂は信長―秀吉―家康の三代に仕えましたが3人とも五子の手合だったと書き残しています。権力者の棋力の差をはっきり公表するのも何かと差しさわりがあったとも考えられます。棋譜が残っていませんからくらべようがありません。そして、百姓出身の秀吉がいつ碁を誰に習ったか現在の史料からでは判然としてないようです。

しかし、囲碁好きだったことは疑いもないようで「全国囲碁大会」ともいえる催しを天正16年(1588)に天下人の威信にかけて当代一流の碁打ちを集め開いています。さらには連日出仕した諸大名に碁・将棋を打たせたと記録に残されています。

写真は2004年に盗難にあったこともある秀吉―家康が対局した運の強い大徳寺所蔵の碁盤。

(庚午一生)

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