父のアルバム【36】第五章 苦難を越えて
父の妻清子の死は突然訪れた。盲腸炎の入院が遅れたのである。昭和25年7月23日のことである。
清子は肺結核を患い、自宅療養中であったが、まさか盲腸炎で他界するとは誰も予想しなかった。担ぎ込まれた因島総合病院の病室で生と死の攻防戦があったようだ。家族あげて無念の死だったに違いない。盲腸炎の手遅れさえなければ長生きできたはずなのにと皆が悔しがった。
昨年、長姉との電話のなかで、清子の最期のことが話題になった。彼女は次のように言った。
「私はお母ちゃんの側にずっといたんで、あの日の病室で何があったか全部覚えている」
「そうなの………」
私はそのように返すのが精一杯であった。何があったのか、問い質すことが恐くて黙っていた。清子が死んだ時、私は5歳で詳しいことは何も知らされなかった。そうした子供のままでいようと思ったのである。
父は激動の昭和を20年も連れ添ってきた伴侶を失ったのである。衝撃と喪失感が父を襲った。しかし、悲しみに打ちひしがれているわけにはいかなかった。学校長という公職を一瞬たりとも忘れることはできない。
そればかりか、残された5人の子供という家族の重みがずっしりとこたえたことであろう。長男は東京の私立大学に入学したばかりであった。長女は高校1年、次女が中学2年。次男は小学2年、三男の私は保育所に通っていた。
父は躊躇せず前へと進んだ。再婚を選択し、新しい妻と新しい母を得ることを決断したのである。昭和25年10月3日松本隆雄43歳、青木行49歳の新しい旅立ちである。
父の再婚は、清子の父母(養子に入った父には義父母)や妹からかなり強い反発を受けたようだ。その理由はその時期である。清子の死後2カ月ほどしか経ていないのに再婚するとは何事だ、というものだった。
清子の妹である叔母はこのことに執拗にこだわった。法事で会うたびに大人になった私に叔母は、「実は再婚に反対だった」と語りかけてきた。挙句の果てに、私が松本家から青木家の養子なることに賛成でなかったと告げて、「あんた、松本に帰ってきなさい」と誘うのである。私は、それには同意できるはずもなく、苦笑いするばかりであった。
父と行の決断は正しかった。ふたりの人生だけではなく5人の子供の前途を守ったのである。清子も父たちの再出発を願ったのではないかと思えてならない。
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