父のアルバム【34】第五章 苦難を越えて

父はアルバムのあるページに「二人三脚・一心同体」と大きな見出しをつけ、再婚記念の写真を貼り付けている。それが下段の写真である。

その写真の脇に次のように記している。

―私達は連れ合いを病死別し不幸となったので幸せになるためにあらゆる苦難を耐え、乗り越えて人並みの夫婦になりたかった。

常に2人で一つの生活を続けた

34年半の夫婦であった 再婚S25・10・3

父がアルバムに遺した、再婚についての一文を読んで私は、それにこめた父の想いを初めて知った。その激しさ、そのせつなさに思わず胸を打たれた。

ふたりの再婚は私が5歳の時のことで、幼い私にはそのことを理解できるはずもなく、「死んだ母親に代わって新しい母がやって来た」としてしか受け入れられなかった。それ以来、行は私の母であり、父の妻であるという認識は希薄であった。
こうした意識が瓦解させられるのは、随分時間を経てのことである。

1985年(昭和60)、私が40歳を過ぎたころである。母は1月早々に因島総合病院に緊急入院し、長期の療養生活を余儀なくされていた。当時、東京に住んでいた私は広島市での所用を済ませ、病床に母を訪ねた。しかし意外なことに母は私の来訪を喜んではくれなかった。

病室で母と息子だけの時間が生まれた。付き添いの父が何かの用事で病室から出て行った間の出来事である。

私は昔ながらの調子で親しみをもって声をかけた。

「お母さん、忠だよ。帰ってきたよ」

しかし、行(いく)からの反応はなかった。そればかりか行は思いがけない声を発した。

「あなた!あなた!」

行はまるで助けを求めるかのように父を呼んだのである。そして私は、行が私の母ではなく、父の妻であることを思い知らされた。強い絆で結ばれたふたりは、息子がその間に分け入る余地のないほどの夫婦なのだと知った。

アルバムに遺された一文を手がかりに、ふたりの再婚について息子としての想いを綴りたいと思う。死ぬ前にアルバムを整理した父が何かを訴えているように思えてならないのだ。

父は1931年(昭和6)12月、松本清子と結婚。激しい戦火のなか五人の子供を生み、育てた。しかし、1950年(昭和25)7月に清子と死別した。

行は1920年(大正9)11月、青木要太郎と結婚。献身的な看病にもかかわらず長い闘病のすえに夫は1946年(昭和21)に他界。子供はいない。

伴侶を失うことがどれほど深刻な悲しみと苦しみを与えるのか、私にはよく分からない。父と行の絆の根っこにはそうした共通の悲しみと痛みがある。

(青木忠)

「便乗の記念写真」との説明が付いている。知人の結婚式に出席した際に撮影したものである。

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