時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【52】秀策に3連勝した水谷縫治

日本棋院の福井正明九段による水谷縫次の人物評は前述の秀策研究者の故樫本清人さんとはちょっと違っています。水谷の生涯はなみだの物語りだというわけです。

少年時代は伊予今治(愛媛県)の神童。本因坊秀策が郷里の安芸因島(広島県)に帰ったとき、父親に連れられてやってきます。そこで秀策の指導を願い、まずは四子置いて完勝。もう一番ということになり、またも完勝。翌日、三子に手合をあらためても完勝しました。

10歳か11歳の少年が江戸城の御城碁で連勝を続けている天下の秀策に四子番、三子番と三連勝したのですから水谷少年の才能はすごいものがあったはずです。秀策はさっそく上京して入門するよう勧めます。これほどの才能を地方で埋もらせるわけにはいけません。しかし、水谷家は名門の医家。縫次少年を御典医への道を進ませようとする父親はあっさりことわりました。

ここまでの樫本―福井の両先生の説はほぼ似ていますが、入門を断ったあとの縫次の運命が暗転したというショッキングな話が福井九段の著書に記されています。

徳川幕府崩壊から明治維新の混乱期に名門水谷家も没落。御典医の道もとざされて、ヤクザの世界に出入りするようになります。バクチで負けた借金は賭碁(かけご)で穴埋めするという。その日暮しの手っ取り早い変身。素人相手の賭碁ですから初めのうちは調子を合わせ勝ったり負けたり。やがてエスカレートするのが賭けごとの心理です。

ある日のこと、大勝負に引き込まれ、縫次に乗る者、相手方につく者で金額がはねあがりました。当然のことながら縫次が本気になれば負けるわけがありません。

ふところホクホクの縫次が夜の山道を帰宅していたところヤクザ者数人が襲いかかり金を奪われました。全身を斬りきざまれ命が助かったのが不思議なくらいでした。後に縫次が亡くなり、納棺に立ち会った人たちがびっくりしたのも頭に二十八の刀傷、肩から背中や胸にかけ十数か所、満足な指はほとんどなかったという話です。

明治13年(1880)に水谷縫次は日本の囲碁文化の再興を志し方円社の立ちあげに東奔西走していた村瀬秀甫の再三の招聘にこたえて上京、助力したというのが通説となっていますが、賭碁の襲撃事件で郷里におられなくなっての上京と考えても間違いない―とは福井九段の弁。

上京して五段、六段と昇段。実力は村瀬秀甫に次ぐナンバー2だったが保守本流の本因坊秀栄は賭碁打ちふぜいとは顔も合わせたくなかったようです。

(庚午一生)

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