父のアルバム【33】第四章 新しい出発

死後30年が過ぎた今日、行の保育事業に遺した業績を知ることができて実に嬉しい。アルバムにその記録がなければ永遠に気付かなかったことであろう。父に感謝せねばならない。

私は地元紙の記者としての経験を積むことで取材とかインタビューという方法を知ったのだが、もし青木行(あおき・いく)がこの世に生きていれば、次々と質問を投げかけたであろう。

私は母としての行しか知らない。それはやむを得ないことで、彼女が公的な仕事に携わっていたのは私が小学校六年までのことだからである。

私にとっての母は養母の彼女でしかなかった。優しい母であり、厳しい母でもあった。少年時代から思春期にかけての私は、彼女の優しさに包まれながらも、同時に彼女の厳しさと威厳ある風格にいささか畏怖を感じていた。そうしたたたずまいがどこから滲み出てくるのか、最近ようやく理解できるようになった。それらの源泉は行の歩んできた独特の経歴にあるのではないか。

実践女学校(下田歌子校長)に通った東京時代。公私ともに奮闘した大阪鉄工所時代。そして敗戦後の保育所時代である。それらの時期に培われたものが反抗期の私を圧倒したのであろう。

行は時代の先端に位置することを好んだ女性だったに違いない。何ごとにも先駆的であろうとしたのではないか。実践女学校に入学することで下田歌子の先駆的な女子教育の洗礼を受けることになった。15年間の大阪鉄工所時代の実績は女性の社会進出の先進的事例になったはずである。そして保育所時代は、明治生まれの気骨ある女の活躍の集大成であった。

明治、大正、昭和という時代である。行の人生は、容易なものではなく、風当たりに抗した日々であったことであろう。「女のくせに」という罵声と陰口にしばしば涙したことだろう。

そう言えば涙もろかった行であった。思うようにならない私を、「どうしてこれがわからないのか」と悔し涙をながしながら叱責し、私を狼狽させたものだった。

敗戦後の保育所は、それまでの託児所であるという様相から大きく脱皮したものである。三庄町の歴史を綴った「ふるさと三庄」に次の記述がある。

―しかし戦後、混乱と疲弊の中で生活に困る者、保護者がともに労働に従事する家庭あるいは、病気にかかるなどで保育に欠ける児童が急増したため、従来の託児所方式は根本的に見直す必要があり、法の整備とともに現在の保育所制度に改めたものである。

行が円熟した人生を賭けたのは、保育所制度の新しい夜明けのためだった。初の女性管理職所長への期待は大きかった。激務だったろうに自分の子供たちには一切愚痴を洩らすことはなかった。

最期の公的な使命を果し終えたのか、行は穏やかに自ら願い出て保育現場から去っていった。

三庄保育所の職員たちと。前列中央が行である。

(青木忠)

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