父のアルバム【28】第四章 新しい出発

私が松本籍から青木籍に移ったのは高校三年の時である。青木行(あおきゆき)がひとりで守っていた青木家に私が養子に入り、父と再婚した行が松本家に入った。したがって、青木家を語り継いでいく使命は私にある。
父がアルバムに遺したメモを頼りに、行の人生をたどっていこう。

養母の行が、瀬戸内海から遠く離れた山形県鶴岡市生まれであることを知って意外に思った。数年前までは出身地は横浜あたりではないかと思い込んでいた。それには理由がある。

彼女は高校生の私を、しきりに「広島弁を使うな。言葉がきたない」と叱るのである。実際、自身もいわゆる東京弁を日常的に使っていた。そもそも因島出身の青木要太郎と結婚するのだが、それ以降も一貫して、広島弁に染まらない生活を送ってきたのであろう。

小学校を卒業した行は、父の仕事の関係で東京に移住し、その地の実践女学校(下田歌子校長)に入学した。下田歌子は日本における女子教育の先駆者として有名である。

実践女子大学のホームページに次の記述がある。

―1899(明治32)年、実践女子学園の前身にあたる実践女学校および女子工芸学校を設立します。両校は、社会の様々な場面で女性が果す役割を重視し、幅広い教養と実践的な学問を教授することにより、女性の社会的立場の向上と自立を図ることを目的としていました。歌子の一般女子教育にかける強い想い、その第一歩が実現した瞬間です。

行は、実践女学校設立のおよそ一年後に生をうけている。そして、多感な思春期を同校で過ごすのである。私は少年期から、行のプライドの高さとにじみでる教養を感じ、圧倒されたものだが、それらの土台は女学校時代に形成されたのだろう。

大正9年に青木要太郎と結婚する。山形生まれで東京に移り住み、青春をそこで過ごした女と、瀬戸内海の因島椋浦で生まれた男。そのふたりが、どのような縁で結ばれたのか、実に興味深いところだが、不明である。そのあたりの事情は、父のメモに記されているはずもなく、行自身に尋ねる他はないのである。

結婚しておよそ2年後、行はクリスチャンになる。このあたりにも興味をひかれる。夫に影響されたのかもしれない。夫婦は深い信仰で結ばれていたことは確かである。

行の建てた夫の墓には聖書の言葉が鮮やかに刻み込まれている。

「神を信じまた我を信ぜよ」

Uターンして私は、初めての墓参で発見した。行の強い遺志を感じた。それは、ふたりの信念だったのだろう。私は義父になる要太郎をまったく知らない。行から聞くこともなかった。しかし、きっと信仰という絆で結ばれた良い夫婦だったに違いない。

大阪鉄工所因島工場時代の青木行=写真右

(青木忠)

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