空襲の子【11】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 もう時間がない

 わたしは空襲の子である。7月28日の空襲に直撃されて家は吹飛び、ゼロ歳のわたしは下敷きとなり死亡したかと思われたが、泥まみれのまま救出されたという。したがって生家はもうない。それから62年間生きてきたわけだが結局、その事実はわたしを逃してくれなかった。


 わたしは今、生れ生きてきたことを本当に良かったと思っている。そして戦後を真剣に生き抜くことも決して容易でなく、命がけであったと実感している。戦後派の一人として、命半ばにして倒れた多くの方々のためにも精一杯これからも生きて行こうと思う。
 わたしは太平洋戦争の時代を生きてきた世代にコンプレックスを抱きつづけてきた。その一人の故吉田満氏は自らの遺書とされる「戦中派の死生観」(文春文庫)のなかで、「一度捨てた命だからこそ、本気で大切にすべきでないのか」と問いかけている。
 「鉄の暴風」と呼ばれた凄惨な沖縄戦の戦場を体験した大田昌秀氏(元沖縄県知事・現参議院議員)は近著「死者たちは、いまだ眠れず」のなかで、「私の戦後とは、戦争の死者をどう慰めるかという慰霊の道と言って過言でないと思う」と述べている。わたしにとっても懐かしい方で、先生が琉球大学に在籍されていたころ、お話を伺いにお訪ねしたことがある。
 今わたしは、空襲の子であることを自覚し、戦後を生き抜いてきたプライドを胸に秘めて、因島空襲犠牲者への慰霊祭の実現を呼びかけたいと決意している。62年目にして初めての慰霊祭は来年7月28日がふさわしいと思っている。
 今年の7月28日、土生工場内での犠牲者の遺族7人が、日立造船因島工場内にある工場殉職碑「殉護照」を鎮魂のためにお参りされた。おそらく爆心地への慰霊行動は、その直後を除いて初めてのことと思われる。
 土生工場内でなくなった岡野孫三郎さん(当時49歳)の長男夫婦である宣行・政枝さん(田熊町)。同じく同工場内で犠牲になった小丸正人さん(当時32歳)のコミヱ夫人、長女由紀子さん夫妻、次女祥子さん夫妻(田熊町)。空襲犠牲者も祀られている殉職碑の前に並び、般若心経を唱え亡き父の霊を慰めた。
日立造船内の殉職碑< 空襲61年目の7月28日、遺族7人は日立造船内の殉職碑に参った。
 太平洋戦争末期の因島空襲は、おそらく因島の近代史における最大の事件であったであろうにもかかわらず、その犠牲者への慰霊の営みは、遺族、日立造船、尾道商業高同窓会にまかせきりになっていた。なぜであろうか。
 わたしが相談を持ちかけたある人は、人間が人間の魂を慰めることはできないと答えた。また別の人に「慰霊を強調するあなたの主張は小泉首相と同じように思える」とまで言われた。戦後年が過ぎたというのにわたしたちは、因島空襲で何人の方が亡くなったのか正確にはつかんでいない。亡くなった方のお名前や出身地もわずかしか判明していない。
(続く)

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