時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【44】本因坊元祖日海和尚(1)

 幕末の天才棋士、虎次郎―栄斎―秀策が江戸に上り入門したのが上野車坂の本因坊家でした。当時、本因坊家の当主は十二代丈和の時代で囲碁四家(本因坊、井上、林、安井)の元締めを徳川幕府からおおせつかっていた官賜棋所(碁所)の地位にいました。
本因坊算砂
本因坊算砂


 その本因坊家の元祖をたどってみますと戦国時代にさかのぼります。天下統一の足がかりを築いた織田信長は囲碁が大変好きだったようで、京に上洛すると噂にのぼっていた日蓮宗の僧、日海(後の初代本因坊算砂)を召し出し対局したと伝えられています。京都・寂光寺記録によると天正六年(1578)のことで、それから以後もしばしば召し出されていたようです。
 信長がお気に入りの日海は当時19歳。幼少のころから囲碁の神童として世間から注目を集めていたのでしょう。本題を少しそれますが、囲碁や将棋界は天才といわれる人が多いので困ってしまうことがあります。現代のプロ棋士を見渡しても姓の上に少年少女時代の「天才棋士」の四文字をつけられる方々がたくさんおられます。ベートーベンやモーツアルト、アインシュタインならともかくも、これほど天才、天才と呼ばれる人が多いと重みがなくなってしまいそうです。囲碁界で真価のある天才は本因坊初代算砂、四世道策、十四世跡目秀策を始め数人ではないかと思います。そうと分っていても身近に天才としかいいようのない豆棋士がいることも事実です。
 ところで、本題に戻して信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたのは、日海と最初に対局した4年後の天正10年でした。人生五十年、疾風の如く戦国の世を駆け抜けた異才の武将と若き天才碁打ちの僧が碁盤を囲んで何を学び、何を得たかは分らないが、信長が負けることを経験したことはまちがいないでしょう。
 信長の囲碁に関する記述は算砂の記録から窺いしることしかできませんが、信長と親しかった宣教師、ルイス・フロイスの「日本史」などにも出てまいりません。だからといって信長が碁を打たなかったとは言えません。
 寂光寺記録に「日海の囲碁は巧妙にして技倆入神の技」と信長が褒め称えたと記録されており、信長のあと天下統一を果たした秀吉が信長の真似ばかりしました。特に囲碁を好んだことからも信長の碁好きを窺いしることができるでしょう。
(庚午一生)

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