父のアルバム【26】第四章 新しい出発

父の戦後のアルバムは30冊近くあるが、そのなかにずば抜けて整理された2冊を見つけた。それらには「行さんの面影」とタイトルが付けられている。

「行さん」とは、父が椋浦町で運命的に出会い、妻の死後に再婚し、戦後の人生を共にした女性である。私にとっては養母であり、彼女の影響下に私は育った。

昭和25年4月、椋浦に因島最初の保育所が設置されるが、その事業は松本行(旧姓青木)の存在抜きには成立しなかったと言っても過言ではない。

父はアルバムのなかに「青木行さんと保育所」というメモを貼り付けている。

23年からミルク給食実施。

23年4月から幼児学級を開設。この世話を依頼したが断られた。区長と共に三顧の礼を尽くしてたのむ。校長のポケットマネーで月々礼。

23年5月三庄町へ椋浦合併。保育所開設の議が出る。

24年地方事務所、県厚生課の視察の結果。23年12月29日に遡り公立保育所認可。

25年主任保母として勤務。

このメモを見ると、父がいかに熱心に青木行に働きかけたか理解できる。最初は断られたと言うが、その理由は何だったのだろうか。やがて父の熱意は通じたのであろう、彼女は主任保母として勤務するようになる。

椋浦保育所の設置は当時、県下において相当話題になったようだ。その様子を撮影したスライド「保育所の子供達」が県視聴覚教育スライド作品1位になった。

スライドの原画になった写真8枚がアルバムに貼られている。鍬を肩にした主婦が子供を連れてきている。保護者と共にやってきた子供たちを保母が迎えている。園庭の砂場では保母に見守られ、園児たちが夢中になって遊んでいる。保母のひくオルガンの周りに数人の園児たちが集まっている遊戯室の風景。芋ほりをする母親の近くで遊ぶ幼い姉と弟の写真もある。

どの写真も、日々の生活の穏やかさとともに湧き出る希望を感じされるものばかりである。私も、設置されてまもない椋浦保育所に入所した。そのころの記憶が微かに残っている。

写真の園児のなかに私がいないか探してみた。私に似た横顔を発見したが、残念だが断定できない。

町民の喜びと誇りである保育所園舎が完成した。昭和25年3月

(青木忠)

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