父のアルバム【23】第三章 教師の信念
「昭和十九年頃のこと」に込めた父の想いは、私にも襲いかかった。その発端は家族をめぐる言い争いだった。
私は高校3年になった時、養母の家を継ぐために松本籍から青木籍に移った。それ以来、松本家に対して次第に関心が薄れていったようだ。そして、Uターンして父と同居するようになって、私には松本家に対する発言権がないことを思い知らされた。
私は父に言った。
「僕はもう青木家のことに専念する。松本家のことにはタッチしない」
当然のことを言ったつもりだったが、父の反応は予想外のものであった。まったく知らない事実を私に突きつけたのである。
「お前が今生きておれるのは、空襲のときにお母ちゃんとお祖母さんが身を挺してお前を守ったからだ。そのことをよく覚えておけ」
私は混乱し、判断を停止した。
父の怒りの言葉が私への遺言であることを理解できるようになったのは、父の死後数年経てからである。空襲を受けた当事者であるにもかかわらず、そのことに無自覚である私へ父は怒りを爆発させたのである。
父の空襲への怒りは深く激しかった。解体作業直前の実家から見つけ出した、「昭和九年夏 家のこと 松本」と表記されたノートの裏表紙にその怒りが書き残されていたのである。
爆撃
昭和廿年七月二十八日
午前十時二十分頃
鮮烈な赤鉛筆による書き込みである。よほどのことだったのだろう。
空襲そして敗戦、占領である。怒りを誰にぶつければよいのか。やり場のない憤怒をひっそりとノートに封印するしかなかったに違いない。
「あの日の空襲を忘れるな」。 父の遺志を誰が継承するのか。もう躊躇してはならない。息子の一人として人生をかけた営みを開始した。あの日、故郷で、そしてわが家で何が起きたのか。それをつかみとることで、父との一体化を願ったのである。
(青木忠)
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