父のアルバム【22】第三章 教師の信念

「昭和十九年頃のこと」に戦時下の教育を担った男としての意気を感じる。父の気概、気骨が私に迫るのである。

戦時下の体験を戦後という時代に語ることは決して容易ではない。とりわけ企業城下町においてはなおさらそうである。そうした地域において行政は城主としての企業に従順である。

企業は学徒動員や空襲の事実の隠蔽を決め込んだ。そして行政はその姿勢に追従した。そのことは、日立造船社史と因島市史を見れば一目瞭然である。

ところで父は、教育委員会課長の時期に「市史」編集委員の一人であった。その後、発行の二年前に教育委員会を退職している。

父の体験談が掲載された「ふるさと三庄」が出版されたのは1984年(昭和59)で、「市史」発行から16年が経過している。その時には、父は市井の人である。

「昭和十九年頃のこと」の内容は、「社史」や「市史」のそれと正反対である。父は、それらに一切記述されていない、三庄空襲の事実をあえて語っている。内容は、隠蔽された歴史的事実を満天下に指し示すごとく鮮烈である。

我慢できなかったのではないか。戦時下の小学校の活動が墨で塗り潰されるような扱いを受けることに激しい抵抗感を感じていたのではないか。

父は「ふるさと三庄」に、「昭和十九年頃のこと」の他に「戦時中の学校行事」についても詳しく記述している。ふたつとも父にしか書けないものである。

戦時下父は、命を削って教師であろうとした。「満蒙開拓青少年義勇軍送出について」を読めば容易に気付く。再び引用してみよう。

…過労激務は続く。高二男の卒業期を控え内申書を作成終了後、十二月三十一日医師の診断は肺結核、十七年一月から遂に欠勤し家庭療養の身となる。幸いにして二週間で解熱し快方へ向う。

入試・就職・義勇軍送り出し等寝ては居れず、クラスの代表に指示する。…然し校医・学校長から出勤が許可されず。止むなく日曜日の午前中二階に集めて入試の準備、また妻の協力で日立造船労務課(知人)へ交渉し三十余全員パス内定、…。

父にとって戦地は学校だったのであろう。引用に出てくる学年「高二男」(高等科二年男子)とのかかわりは父にとって特別のものだったようだ。その同窓会などのことを私は帰省するたびに聞かされたものだ。
父にとって「戦時下の教師生活」は宝ものだったに違いない。児童たちとともに過ごしたその日々は心底に生きつづけたはずだ。

教師とは何か、教師はどうあるべきか。言わば教師の信念とも言うべきものを戦時下において、確立したのではないか、と思えてならないのだ。

(青木忠)

国民服姿の父である。これは、昭和15年に定められ、戦時下使用された、男子の標準服である。

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