時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【41】虎次郎改め安田栄斎(その一)

駿馬名伯楽に会う(1)
 天下泰平の徳川幕府。国運をゆるがす軍(いくさ)もなく、江戸詰めの諸大名の話題といえば藩内のすぐれた人物、風景や名産品などお国自慢に花を咲かせていたということです。備後地方では春の「サクラ鯛」もその一つ。現代のような冷凍技術がなかったので塩蒸しにして竹の皮で包装して江戸に運んだという話もその一つ。今も伝わる「タイの浜焼」です。三原城主浅野甲斐守忠敬が因島の童(わらべ)に天が与えた碁才を高く評価して庇護したのもお国自慢の下心があったからと思われます。


 浅野公は、虎次郎を城中に招いて自らの相手をつとめさせ、かねて公の指導をつとめていた竹原宝泉寺住職葆真和尚に童の指導を依頼したと伝えられています。この頃、虎次郎は7、8歳。名を安田栄斎と名乗っていました。
 その改名の期日など現在残されている文献や子孫の方々にお聞きしましたが判然としないままです。安田の姓から推理すると、虎次郎の父輪三の生家は三原城の西にあたる西野村(現三原市西野町)の庄屋を勤めていた屋号原崎屋、その頃の当主は安田新左衛門宗之(輪三の実兄)でした。桒原虎次郎はお茶坊主として三原城に入るため城下の庄屋安田姓を名乗り同時に栄斎と改めたのではないかと思われます。
 囲碁の天才児、虎次郎改め安田栄斎の指導にあたった葆真和尚とはどんな人物だったのでしょう。当時、棋力は初段とも二段ともいわれ後に三段まで進んだという安芸・備後で知られた碁豪で知られていました。昔は今と違ってプロ棋士とアマとの区別はなかった時代です。当時の日本国中国碁姓名録によると全国の有段者総数は250~260人。安芸国での有段者は葆真和尚のほかに秀策と関係のあった能美島出身の石谷広二二段、その本家筋にあたる石谷直三郎初段、林小太郎初段ら4人にすぎませんでした。葆真和尚は地方で活躍しておられましたが中央の棋士がよく訪れていた形跡が残っています。
 天保6年には服部因淑七段、嘉永2年に訪れた十一世井上因碩(幻庵)は秀策と因縁深い「耳赤一手」を残したことで有名ですが、それぞれが葆真和尚と手合わせをしており、和尚の入段昇格のあっせんをするほど地方棋士の逸材として認められていたようです。そのほか、漢學にも通じて詩文も残っており、雅号「竹原(ちくげん)」と号し画道にも秀れていて浅野甲斐守忠敬の知遇をうけ、晩年は拝領のかごで三原城へ出仕することを許されていたと伝えられています。
(庚午一生)

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