父のアルバム【21】第三章 教師の信念

前回に全文掲載した父の「昭和19年頃のこと」は、私が生まれ故郷で自信をもって生き直していくうえの「バイブル」になった。

昭和19年とは私が生まれた年である。何回読み返し、何回文章に引用しただろうか。叶うなら、この文章について父に直に問い質したいことがたくさんある。

「教師は次々応召されるので元からいた人は6名位で…」。父は戦地に招集されることなく学校に残った。仮に応召し、戦死するようなことになっていれば、私はこの世にいないことになる。

高学年担任の父は、学徒動員で日立造船三庄工場に出勤していた。私たちの住居は工場のすぐ近くにあった。父は一旦学校に向かい、児童たちを引率し、隊列を組んで工場に向ったのであろう。

駆逐艦や舟艇等が接岸していたという。当時の工場の様子を尋ねたかったのに残念だ。

「英軍の捕虜も一緒に働いていた」という。この記述には驚いた。「日立造船社史」や「因島市史」には英軍捕虜について一言も触れていない。父は体験した事実のありのままを書いたのであろう。

「私達が工場にいた時アメリカ艦載機の襲撃をうけた」という。これはいつのことであろう。三月十九日の空襲のことだろうか。

7月の空襲(7月28日)の際に父は学校にいて、そこから見た空襲の様子を描写している。爆弾が炸裂する地ひびきした工場方向に慌ててかけつけ、その途中で自分の家が「跡かたもなく飛び散っている」ことを発見するのである。

同時に附近の家も破壊されて大混乱におちいっている惨状を目撃する。

父が目の当たりにしたのは、まさしく三庄空襲の最も悲惨な現場である。家屋3件が全壊し、子供5人を含む7人が即死した。

父の残した「昭和19年頃のこと」は立派な歴史の証言である。三庄空襲の事実についても「日立造船社史」と「因島市史」は一切記載していない。

父は「因島市史」編集委員に一時名を連ねている。父は市史おいて全く記述されていないことに対抗して、「ふるさと三庄」にその原稿を寄せたのだろうか。それが今なお解けない謎である。

戦争末期の写真である。戦時服を身につけた男女の大人たちが小学校に集合し、訓練のために行進しているのであろう。

(青木忠)

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