父のアルバム【20】第三章 教師の信念

「義勇軍」送出は大きな傷を残した。冊子「義勇軍」を発刊した広島県退職校長会の丸子要一会長はそのなかで、次のように記している。

―国策に応じて民族協和・大東亜建設・王道楽土を建設するという国是にしたがって義勇軍の送出に尽力した教員・校長…そのことが今も尚教育者と教え子の関係に深いわだかまり、不信、怒りのあることが教育不信・教育者不信につながっていることを拭い去ることはできないし、教育者として胸が痛み、良心が許しません。

父の遺品のこの冊子の一冊に「贈、義勇軍送出についての原稿送付、したため、10、4、22 当時の若い人の死者のため」という書き込みがあった。

父と私を今尚深く繋いでいる文章がある。それは「ふるさと三庄」の「昭和十九年頃のこと」である。

―私は昭和11年頃から昭和21一年まで三庄小学校に勤めていました。今思い起こしてみますと終戦前の状態は異常なものでした。教師は次々応召されるので元からいた人は六名位で、あと10名位はみなその代員だったのです。

児童が登校したら先ず朝会で団体訓練から始まり、低学年は勉強ですが高学年は塩田作業に交代で行きます。この間出征兵士への慰問作文、慰問袋、避難訓練等、状況に合わせて色々な行事が行なわれました。私は高学年を担任しておりましので学徒動員で日立造船三庄工場に出勤しました。日立造船は海軍の指定工場になっていたので駆逐艦とか舟艇等が接岸しておりました。私達の外に土生女学校の生徒、英軍の捕虜も一緒に働いておりました。作業は造船の手伝いで各職場に分かれて作業の手伝いをするのです。工場の大人達は「生徒さんがくると励みとなって仕事がはかどる」と言って喜んでもらいました。

私達が工場にいた時アメリカ艦載機の襲撃をうけた事がありました。この時は全くあわててどこへ逃げたらよいのか、ただうろうろするばかりでした。いざ本番となるとあわてるので避難訓練はさいさいやる必要があると思いました。7月頃、この日は朝から艦載機の襲撃がありました。しばらくして空襲警報と同時にB29の爆音が聞こえ十五機位で日立造船の土生、三庄が爆撃を受けました。私はこの時学校におりましたので南の方をみておりました。三庄工場の方で爆弾が炸裂する地ひびきが数回しました。飛行機が去った後現地を見に行きましたら七区の私の家附近に池のような穴が出来て家は跡かたもなく飛び散っておるのです。この附近の家も破壊されて大混乱でした。この時10数人の死者があったことを思い出します。

戦時下の児童たちは、校庭に「日の丸」をひと文字で描き、戦意高揚を願った。

(青木忠)

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