父のアルバム【19】第三章 教師の信念

父のアルバムのなかに私が釘付けになった写真があった。今回掲載した写真がそれである。父が関わった満蒙開拓青少年義勇軍の児童たちとの記念写真である。

私はその写真を発見する数年前に、父が「義勇軍」送出に関わっていたことを知った。「義勇軍」の戦死者の遺族から聞いたのである。しかし、そのころは、写真や手記が存在するとは思いもしなかった。

関係する父の手記の一部を再び読んでみよう。

昭和11年4月三庄小学校に転任、概ね60余名の児童を担任、入試のあるクラスが多い、上海事変・日支事変と拡大し戦時態勢の教育が行なわれ、短現以外の若い教師は次々に応召、30才代の教師は唯一人、学校教育、社会教育、戦時下の町内用務への協力、過労激務は続く。高二男の卒業期を控え内申書を作成終了後、12月31日医師の診断は肺結核、17年1月から遂に欠勤し家庭療養の身となる。幸にして二週間で解熱し快方に向う。

入試・就職・義勇軍送り出し等寝ては居れず、クラスの代表に指示する。当時は結核について全国的権威者尾道市の高亀博士の診断を受け大丈夫との旨、然し校医・学校長から出勤が許可されず。止むなく日曜日の午前中2階に集めて入試の準備、また妻の協力で日立造船労務課(知人)へ交渉し30余全員パス内定、義勇軍は2学期始め決定済みであった。出発日等不明。

敗戦と三名の義勇軍の結末―椋浦校転勤のため転居ししばらく不明。漸く同級生等から知らされる。

柏原丈二君 体格すぐれ現地召集?入隊し戦死。後日家庭を訪ね仏前にお参り。

宮地 勇君 同じ七区出身、家族も不明で会うことも無く、黒部の近くの大町に住み健在とか。連絡なし気掛りである。

以上は、昭和17年ころの地元小学校における父の活動をありのままに綴ったものだ。実に苛酷な日々であったのであろう。高等科の児童を受け持っていた父は肺結核を患いながらも、入試、就職、義勇軍送り出し等に懸命になっていた。

とりわけ義勇軍送出には神経を使っていたに違いない。義勇軍を志願して満蒙に行くには、当時の戦局からして、死の覚悟を要したからである。二度と親の元に戻ってこれぬ可能性があった。

「義勇軍」は国家の厳命である。昭和12年末、第一次近衛内閣は、満蒙開拓青少年義勇軍制度の実施を決定した。やがて戦争が長期化するにつれて、応募年齢は低下し国民学校高等科を卒業したばかりの15・16歳に集中するようになった。

義勇軍の人数は都道府県に割り当てられ、各学校の送出数も決められた。

満蒙開拓青少年義勇軍の少年たちとの記念写真。「義勇軍」の砂文字が鮮やかである。

(青木忠)

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