ふたりの時代【44】青木昌彦名誉教授への返信

70年安保闘争と私(10)
 ベトナム戦争の泥沼化の日本国内に与える影響が深刻化するなかで、全学連のデモを取り囲み、ともに行動しようとする住民の動きが強まった。その傾向は、米原子力空母エンタープライズ寄港阻止・佐世保闘争で顕著になり、東京北区の王子野戦病院開設阻止闘争でも、全学連がデモをするたびに5千人以上の地元住民が集まった。


 1968年3月28日の昼間、学生が米軍王子キャンプに突入したが、その熱気は夜にひきつがれ、学生や青年労働者を先頭に万余の住民が集結し、投石したために機動隊は総退却し、深夜11時ころまで騒然となった。こうした動向が頂点に達するのは、国際反戦デーの10月21日に新宿駅で行われた米軍燃料輸送阻止闘争である。
 国際反戦デーは10月21日と決められていた。1966年10月21日に日本労働組合総評議会(総評)が「ベトナム反戦統1スト」を行い、全世界に国際的な統1行動を呼びかけたことで始まった。全学連はその最大のテーマに米軍燃料輸送阻止をかかげた。「70年安保闘争史略年表」は次のように記している。
 ―全学連の学生たち1500人は、午前3時すぎにお茶の水駅で決起集会を開いたあと、電車に乗り代々木駅で下車、線路づたいに新宿駅へと向かった。新宿駅前・駅構内では労働者・市民2万人の合流のもとに大集会と大デモが繰り広げられ、国電が放火されるなど混乱した。午後11時頃には騒動も沈静化に向かったが、政府は翌22日午前零時15分、騒乱罪を適用して市民多数を逮捕した。
 発端は、前年の1967年8月8日午前1時45分、新宿駅構内で発生した米軍燃料輸送列車の爆発・炎上事故であった。米軍基地のある立川に向かっていたタンク貨物列車の側面に別の貨物列車が衝突した。タンク列車には米軍用の航空機用ジェット燃料が満載されていた。タンク車から漏れた72トンもが燃え上がった。復旧が完了したのは翌9日午前4時4分で、丸1日以上中央線は停止し、国電1100本が運休し、200万人に影響がでた。
 この事故をきっかけに米軍燃料輸送反対の動きがたかまり、国労は10月19日、順法闘争に入った。米軍の燃料はベトナム戦争に派遣される米軍機にも使用されるもので、日本がベトナム戦争の兵站基地になっていることが、いっそう浮き彫りになった。
 ところで、この新宿駅米軍燃料輸送阻止闘争は、政府の騒乱罪を発動するぞという牽制をはねのけて決行された。すでに王子野戦病院闘争のころ政府は、騒乱罪の適用を決めていたようである。こうした動きは、1952年(昭和27)、朝鮮戦争下で生起した3大騒乱罪事件(血のメーデー事件、大須事件、吹田事件)以来のものであった。騒乱罪の適用が決まれば、現場にいるだけで無差別に検挙することが可能になり、首謀者には重罪が課せられる。しかし、騒乱罪発動の脅しは、闘いの炎に油を注ぐ結果を招き、逆に新宿駅を焦点化させ、民衆をそこにどんどん集めてしまう結果を生み出した。
 最近、その時どうしていたかと、家内に聞いてみた。私より5歳下の彼女は当時、埼玉大学構内にあった埼玉県立教員養成所に在学中であった。キャンパスは、「新宿駅が大変らしいよ」の話でもちきりであったそうだ。おそらく、こうした報せは一挙に首都圏に広がり、さらに多くの人間が新宿へと向かったことであろう。
 その日私は、一切闘争に参加しなかった。しかし、歴史的事件になるであろうこの闘争をつぶさに目撃しようと群衆のひとりとして、新宿駅東口側にある歌舞伎町界隈にいた。
 そのあたりは風俗街ということもあってか、誰もが殺気だっていた。味方か敵か判別できないほど騒然としていた。いつ襲ってくるかもしれない危険に注意しつつ、現場周辺に少しでも近づこうと歩きつづけた。

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