父のアルバム【16】第三章 教師の信念
父が記述した地元小学校の「戦時中の学校行事」を読んで、そのあまりのリアルさに驚かされた。そして、その時期の教育に父は、心血を注いだのだと思った。そうでないとここまで書けないはずだ。
この記述は父が80歳に達するころのものである。戦争が終わって40年も経ているにもかかわらず、まるでつい最近のことのごとく書き表している。
無用な形容詞を排して淡々と事実を列記し、当時の有様を浮かび上らせている。当時の資料を保存しており、それに基づいて記述を進めていったのか。そうではないような気がする。
戦時下の教育実践は父の心身に沁みついていたのではないか。忘れようにも忘れられない体験だったのではないか。活字化する機会を得てそれが溢れ出したのではないかと想像するのである。
父が地元の三庄小学校に転任するのは昭和11年4月のことである。その翌年に日中戦争が勃発し、四年後に太平洋戦争が始まる。島の教育も戦時色を濃厚にする。当時の教育について「ふるさと三庄」に次の記述がある。
―昭和12年(1937)日華事変が起きてから、軍国的傾向がさらに強くなり、戦時という考え方が出るようになった。(中略)
昭和16年(1941)12月太平洋戦争に突入しアメリカと交戦することになった。この当時から政治は軍事態勢をとり教育も非常時教育が指示され、あらゆるものが戦時態勢にかわって行った。小学校は国民学校と改称させられ教育内容も皇国民の基礎的練成をするという目標となった。
したがって教科書の内容も戦争遂行の教材が多く取り入れられた。又いっぽう、団体訓練が重視され、登、下校は二列縦隊で部落長の指揮で行進するとか、運動場での団体訓練の機会が多く取り入れられた。
昭和18年(1943)から戦時非常措置をとらねばならなくなり、6月には学徒戦時動員体制、10月には教育が出来る状態ではなくなった。大学等の学生は次々と戦場へ動員され、国民学校高等科、旧制中学校、女学校の生徒は軍需工場へ動員されたのである。
(青木忠)
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