ふたりの時代【30】青木昌彦名誉教授への返信

人生選択の広島大【2】
 ある日、学科は違うが同学年の活動家が私を寮に訪ねてきた。初対面であるにもかかわらず「次の選挙に一緒に執行委員に立候補してくれないか」と、申し入れてきた。それは熱っぽく、今にも泣き出さんばかりの勢いだった。


 ここでいう自治会とは、全学の1、2年生全員が加盟する教養部学友会というもので、三千人の会員を擁する、最大の学生組織であった。その執行委員に立候補するということは、自治会のリーダーになることを意味した。すでに述べたように、学生運動をしないという私の決意は固く、突然の申し入れを拒絶するしかなかった。
 だが、相手も「だめになっている自治会を再建しよう」などと食い下がり、引き下がろうとしない。あからさまな断りを言えない私は、選挙に立候補すること自体には同意した。もちろんそれは、自分が当選するはずがないと判断したからだ。やがて予想通りの結果が出た。執行委員の選挙は、五、六〇人のクラス選出の役員で構成された評議員会で行われるのだが、対立候補にあっさり負けてしまった。もっとも落選志望の候補者が当選するはずがないのだ。これで一件落着のはずであった。
 ところが、ここで思いもよらぬ劇的な変化が生じることになった。私を誘った活動家はともかく、私が引くに引けなくなったのだ。とにかく落選したことが悔しくて、許せないのだ。今度は自分から挑戦し当選してやるぞ、と決意してしまった。
 ここで初めて自治会とは何か、学生運動とは何か、真剣に考え始めた。あらかじめ学生運動をしないという枠をはめての学生生活がくつがえる時がきた。学生運動を軸とした学生生活がスタートした。入学してからの自堕落な生活は一変し、精神も肉体も精気がよみがえってきた。週に2、3回しか顔を見せなかったキャンパスにも毎日早朝から通った。よほど性に合ったのだろう、私は学生運動に出会うことによって救われたのだ。自ら考え企画して実行に移し、その結果に責任を負う、そういうチャンスを初めて手にしたのだ。
 高校に比べて比較的自由だ思われている大学ではあるが、実際のところそれは、国家、社会、大学によって管理され、与えられた「自由」でしかない。高校時代には、それは大学に入学してやりなさいと言われ、大学では、社会人になってやりなさいと言われるのだ。そして社会に出れば、生活のためにと、諦めるのだ。つまり、自由とは与えられるものではない。自らの力で闘いとるものである。
 自分の内面に秘めたものが、どれほどの大きさのものか、思い知った。これほどのエネルギーを自覚しないで封じ込めたまま、月並みな大学生活の枠に自らを閉じ込めようとしたことこそが、1年間の混乱の原因だったのだ。
 私の場合、高校から大学への過程が、劇的な成長の機会だったのだろう。その飛躍を恐れ、躊躇したことで、危うく自壊するところであった。こうして私は、生来の自由奔放さを回復し、眼前に見えてきた、進むべき道を歩んで行った。まだ傷跡が生々しかった原爆被爆の現実を直視する姿勢を獲得しはじめていた。また、自分が進もうとしている教育の現実への批判的な関心も強めていった。
 そうしたなかで、アメリカの原子力潜水艦が初めて日本にやってくることが明らかになった。1964年11月、米原潜「シードラゴン」が佐世保に入港した。60年安保以来なりを潜めていた、反安保、反基地闘争も東の横須賀と西の佐世保を焦点に高揚をみせた。広島大学の学生もこれに敏感に反応した。
 教養部学友会(自治会)が当時、役員は選ばれたものの機能停止状態をつづけていた。私は仲間とともに闘争委員会を結成し、デモの組織化に着手した。私は当然にも大学のデモなどに参加した経験などなく、自分が呼びかけたものが、自分にとっても初体験という初々しさであった。

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