父のアルバム【13】第三章 教師の信念

太平洋戦争末期に学徒動員された当時の大学生に会ったのは、私が学生運動を引退した直後だった。そのころの私は、二十数年間もつづく裁判の被告のひとりとして、その準備にとりかかっており、学生運動への社会的評価を探っていた。

「君も国の将来を憂いて命をかけて学生運動をやったんだろ。当時の特攻隊の心情と同じだよ」

その人はそう言いたかったのである。

ところで、特攻隊問題は戦後の学生の間にも深刻な影響を残していた。当時の多くの最優秀の学生たちが特攻隊という形で戦死したという厳粛な事実をどのように考えるか、依然として大きな課題であった。そうした問いかけに私が下した結論は、「戦争に命を捨てるくらいなら、戦争反対に命を捧げよう」というものであった。

「当時だったら君も特攻隊だよ」という指摘は唐突ではあったが、私にとって新しい問題提起になった。それを受けて、特攻隊を自らの問題として考えるようになった。主要にはふたつの点についてである。

そのひとつは、当時の学生には特攻隊に出陣する以外に選択の余地がなかったか、という点である。ふたつ目は、その時代に自分が学生であったなら何をなしえたか。戦争反対という態度を貫けたか、という点である。

ふたつとも簡単に回答が出せるはずもなかった。しかしそうしたテーマと格闘することで、その時代に身をおいて思考できるようになった。そうすることで、戦前と戦後の間に横たわる深く大きな谷間を渡る手がかりをつかむことができたのである。

戦前と戦後は決して別世界でなく、繋がっているひとつの時代であることに気づいたのである。戦前と戦後とはその上で、時代の大きく変化した様相なのである。したがって戦後をしっかり理解しようとするなら、戦前の正確な理解が不可欠なのである。また戦後から戦前を考察する視点も大切である。

特攻隊の問題を切り口にした思想的葛藤を通じて私は、「戦後派」としての限界を突破するヒントを見つけたが、父と私の距離は狭まりはしなかった。私が父に近づくには最後の高い峰を越えねばならなかった。

長い回り道をしたが、私は父のひとり住む故郷に帰った。そして私は大きく変わるのである。

もともと大学を卒業したなら学校教師として地元に赴任する約束であった。それを果たすことが、最後の高いハードルを越す出発点になった。

昭和12年3月の写真。「小楠公」と記されている。楠木正成に因んだ劇をしたのだろう。後列左端が父。

(青木忠)

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