時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【24】御城碁不はずみに候…(その3)

 秀策は本因坊家に請われて20歳という若さで第十四世本因坊秀和の跡目に就きました。以来、御城碁出仕の準備を中心に門下生の指導、相撲でいえば地方巡業にあたる遊歴をしながら囲碁の研究と普及につとめる毎日でした。


 しかし江戸幕府の末期に近いころになると、幕府の威令漸く行われず、その上、日本の周辺はにわかに騒がしくなり外国船の来航も頻繁になって内憂外患の時代を迎えることになります。幕閣のなかからも「囲碁の如き技芸の振興は国情にそわない」という御城碁廃止論が出てくるのも仕方のないご時世でした。こんな時代でしたが、秀策は希望を捨てず、安政4年(1857)29歳の新年を迎えました。天保8年11月、浅野藩の家臣寺西右膳に連れられ江戸に出たのが九歳のとき。12歳、16歳、22歳で帰国の途に着き、そして4度目の帰郷を思い立ち騒然とした江戸の城下を出発しました。
 この旅は、恩師であり秀策の妻花の父である十二世本因坊丈和の二男(花の弟)葛野亀三郎三段を連れての旅であった。途中、名古屋、伊勢、大阪など各地を転戦、郷里因島外之浦に到着したのは4月初旬。春の海が金波銀波に輝く季節になっていました。申すまでもなく、この度の帰郷が秀策の最後のものとなった訳ですが「虫の知らせ」というか、予感のような話題が多く残っています。
 第1話は倒幕、明治維新と変革した時代の流れのなかで幕府の庇護を失った囲碁界は混迷のなか設立した後の方円社々長中川(葛野)亀三郎八段に協力した水谷縫治との出会いが秀策生家の浜満屋でありました。水谷は伊予国大島椋名生まれ。しまなみ海道沿線の島で平成の大合併で愛媛県今治市に編入されました。父は医師で性来棋をよくし、7歳の時今治城主松平壱岐守勝吉公の前で近侍と対局、近辺に敵するものがいなかったと伝えられています。
 そこで、天下に名だたる本因坊秀策が因島外之浦に帰省することを聞いた水谷親子は指導を願い秀策の生家を訪れた。天才少年縫治13歳。秀策七段に対し四子と三子を布いて三局の指導をうけた少年が全勝。秀策から入門のすすめがあったが、病弱であったことから親の反対もあって上京をあきらめました。幕末大動乱の直前に秀策は亡くなりましたが、以後20年間に及ぶ空白に近い棋界衰退の時期を経て明治中期に至り碁界にも新機運が動いて方円社などの創立を見ました。
 いったんあきらめた水谷縫治ですが、明治12年、33歳のとき方円社創立に際し初めて上京して囲碁界再興に参加。その活躍が期待されましたが、明治18年39歳で没しました。方円社は七段を贈りました。
(文・庚午一生)

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