ふたりの時代【28】青木昌彦名誉教授への返信

島からの旅立ち
 60年安保闘争の高揚と衰退の時期は、私の島からの旅立ちの準備=広島大学受験準備の過程と重なっている。安保闘争が本格化した1959年4月には、地元因島の三庄中学校3年に進級し、翌60年に因島高校に入学した。広島大学入学は1963年である。私は、ある一点を除いて、全社会を巻き込んだ60年安保闘争からの影響を自覚しないまま中学と高校生活を過ごした。しかし、その一点が決定的で、強度の精神的な呪縛となって大学生になった私を苦しめた。


 その一点とは、担任の教師から学生運動を敵視する教示を受け、学生運動とは何であるか知らないまま、それに絶対に参加しないと決心して広島大学に入学したことである。つまり私は、安保闘争から負の影響を受けたことになる。その教師は、広島大学出身の若い英語教師で、私が熱中した野球部の部長でもあった。おそらくその教師は、学生運動への反感を持っていたのであろう。
 しかし、そうした決心をしていながら、もうひとつの志向が内面で急速に育っていった。それは、自由への切ないほどの憧れであり、私の目には、大学はまるで自由の天地に映った。当時すでに受験戦争という言葉が生まれていたが、学校の授業にうんざりしていたのだろう、大学に行けば、「自由に学問というものができる」という想いを日増しに募らせていった。
 こうした心情は、島に生まれ、島で育つことによって、かもし出されていった。島というハンディは、私にはなんら苦痛ではなかった。そればかりか、それは反逆のエネルギーに転化し、成長の跳躍台にさえなった。「島の子は井の中の蛙になりがちだ」とは、言い古された島の教育観であるが、私の人生上、島育ちということが障害になったことは記憶にない。島に生まれ、島に育ったということは、個性に特徴を与え、発想の独自性を形成した。
 私はある条件のもとではあるが、自由奔放に島の生活を楽しみ、それを原動力に成長していった。突きつけられた条件は、教師になることであった。両親はもともと、教育者であった父を継がせ私を教師にしようと決めていたらしく、父の卒業した広島初等師範学校、のちの広島大学教育学部東雲分校を受験することを強く求めた。それさえ守れば、当時大好きだった野球も好きなようにやらせてくれた。
 その当時の私にとって野球は、部活動を超えて、思春期における唯一の自由の発露であり、それに夢中にさえなっていれば、すべての悩みからも解放された。受験戦争の激化のなかで部活動をすることさえ窮屈になっていったが、そのような空気が、いかなることがあっても、自分がやりたいと思うことをやりぬきたいという、抵抗精神を芽生えさせていった。そしてそれを出発点に内面世界を静かに膨らませていった。
 ついには、「親や学校の求める大学にさえ入れば、あとは自分の好きにやっても文句はないだろう」とまで開き直る生意気な高校生になっていった。親も学校も結果さえ出していれば、内面世界にまで踏み込んでくるわけではない。私も、そうした内面の自由さえ保障されていれば、何も文句を言わない素直な少年であった。また、中高を通しての晴れ舞台は、生徒会や授業などではなく、野球であり、体育祭であった。したがって、広島大学から東京時代の私と、島の少年時代の姿が、あまりに違いすぎるのに驚いた人が少なからずいたのは、無理からぬことであった。中高の後輩からも、「あの青木さんがと、思った」との声を聞いた。
 島に生まれ島に育った18歳はある結論に達し、高校三年のホームルームで初めて意思表示した。それは「どんなに貧しい生活に陥ろうとも、自分に忠実に自由でありたい」というものであった。
(文・青木忠)

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