父のアルバム【11】第三章 教師の信念

父が生きた昭和は、戦争と動乱の時代であった。ここで言う昭和とは元年から20年までのことを指す。明治までさかのぼりその時代を概括的に見てみよう。

日本の近代史は、世界的な動向と関連して大きな戦争の連続であった。まさしく戦争が戦争を生み出す様相を示していた。

日清戦争 1894年(明治27)~95年(明治28)
北清事変 1900年(明治33)~01年(明治34)
日露戦争 1904年(明治37)~05年(明治38)
第一次世界大戦 1914年(大正03)~18年(大正07)

人類史上初めての世界規模での大戦である。戦場はヨーロッパだけではなく、列強の植民地にも広がり、多数の国が参戦した。日本も日英同盟に基づき連合国の重要な一角をしめた。

父は大正時代に少年期と思春期を過ごし、その最後の年に師範学校を卒業する。世界大戦は9歳から13歳にかけてである。

日本は満州事変をもって15年戦争へと突入する。

満州事変 1931年(昭和06)父は25歳、向東小学校に勤務
日中戦争 1937年(昭和12)31歳、三庄小学校勤務
太平洋戦争 1941年(昭和16)35歳、三庄小学校勤務
ポツダム宣言受諾 1945年(昭和20)39歳、三庄小学校勤務

父の勤務する教育現場は本来、国の意向が直裁に反映するところであるが、三庄小学校に転任するころから教育の戦時色はいっそう濃厚になる。

大正15年から9年7カ月勤めた向東小学校時代について、「平和でゆたかな教育実習時代。よき先輩・同僚に恵まれて、指導され自己研修、3年目には研究会を主となり開催等、今日の基づくりとなった」と回顧している。

ところが昭和11年4月に三庄小学校に転任するや様相は一変するのである。「上海事変・日支事変と拡大し戦争態勢下の教育が行なわれ」となった。

師範学校卒業後すぐに赴任した小学校において順調に教師としての力量をつけていったに違いない。しかし、それが開花することに戦争という堅固な壁が立ちはだかった。時流に抗することをあきらめざるをえず、耐えるしかなかった。心ある教師たちにとって、もどかしい日々が過ぎていった。

子供たちを教育する実践と政治・戦争の論理は両立しにくいのは当然だろう。政治と戦争が優先される戦時下であれば、教育の衰退は必至である。

こうした時期の教師としての想いを父に訊きだすことに失敗した。実に残念である。推測になるが、父のことである、逆に教育への情熱を燃やしたはずである。教育にこめた信念は揺るがなかった。父は戦時下の教育においてもその中心を担った。

父は万年筆で写真説明を記している。27歳の時である。教師になって7年目のころで、自信もついていたことだろう。

(青木忠)

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