時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【23】御城碁不はずみに候…(その2)

 秀策は9歳で江戸・本因坊家に入門。34歳という若さで亡くなるまでに因島外浦へ四度帰郷しています。第1回目は天保11年(1840)第2回目弘化3年(1844)第3回目嘉永3年(1850)そして第4回目が安政4年(1857)でした。第1回、2回目の帰省は、彼が青少年の修業時代。第3回、4回目は本因坊家の跡目としてお城碁に参加しており、郷里における滞在も制約され、帰省スケジュールも1月に江戸を出発、10月初めまでには帰府しなければなりませんでした。その理由は11月17日には恒例のお城碁に出仕するため準備が必要でした。


 だが、伊豆相模の大地震に続き江戸を中心に大地震があり、江戸城も大被害にあった安政二年(1858)はお城碁が中止。それに加え、黒船来航、尊王攘夷倒幕論などの社会不安もあり文久元年(1861)が御城碁としては最終回となり、それ以後は正式には行われませんでした。こうした徳川末期の世情不安をなげいて「当地、棋(碁)は甚だ不はずみの様子に御座候」と、尾道の後援者橋本吉兵衛竹下や因島外浦の父輪三に書き送っています。
 時代的に重ねると、天璋院篤姫時代の幕末で、公方様は家定将軍と家茂将軍のご覧になる前で御城碁を披露したことになります。しかし世情を見るに敏な秀策は、安政6年9月17日付の尾道の豪商、橋本吉兵衛静娯宛の書簡に安政の大獄の模様を知らせ「碁は更に打ち申さず、この節は余程下り候存ぜられ候」と棋力の低下を憂えています。天才棋士秀策の最も充実した棋士生活で囲碁発展のために活躍すべき時代が日本史に数少ない大動乱直前の真只中にあったことは棋士としての技術の研鑽の芽をつんだことはまちがいないことでしょう。
 そして明治維新という封建制度互解に伴う碁所制度消失による二十数年間の囲碁界の空白時代を秀策が存在していたならどのように乗り切ったでしょうか―。こうした時代背景の中で碁打ちとして一生を終わりながら第四世本因坊道策とは異質の崇敬を払うべきだと思います。いわば逆境の中にあって自らを鍛え抜いた偉大な棋士、段位こそ七段に終っているものの12年間の御城碁十九連勝という棋力は十段とも十五段ともいわれる理由でしょう。
 秀策の棋力について広島県出身の名誉九段瀬越憲作先生は「その棋譜を並べ易いこと。言葉は悪いが打碁には原則的に簡易性が一貫している。すなわち強力な読みの深さを蔵して、碁の複雑性を簡明化している」と、名人にして初めてなし得る神業とでもいえようと評価。自ら争闘をかってに出ることなく、特に黒をもってはスラスラと打ち進んで勝っている。この理詰め、いわゆる”位(重み、品格)”を主として打つのが秀策の碁風とでも言えるだろう」と。

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