「橋本君輝昭に捧ぐ」司馬遼太郎の弔辞【6】

掲載号 10年07月17日号

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君は忠恕の二字に盡く

弔辞は「戦いの末期には、君は中仙道の山中にありき…」と続きます。学徒動員で出征した司馬さんと橋本さんがどうして内地で終戦を迎えたかについては先述で少しふれましたが、その頃のラジオから、こんな歌が流れていました。

「拝啓ごぶさたしましたが僕はますます元気です。(中略)見てろ今度の激戦に タンク(戦車)を一つぶんどって ラジオニュースで聞かすから 待ってて下さい お母さん」

という軍歌とも国民歌謡ともとれる軽快なメロディーが国民の間で歌われていたものですが、実情はきびしいものでした。兵庫県加古川の戦車十九連隊で初年兵教育を受けた二人ですが下級指揮官養成機関の満州に送り込まれます。中国東北部の大地には満蒙開拓団といって昭和6年(1931)の満州事変後、日本から送り出された農業移民団や少年志願の満蒙開拓義勇軍など軍事目的と国内農村窮乏の緩和とを目的として約30万人が居住。これに対ソ戦に備えた関東軍が配備されていました。

結果は、ソ連参戦により日本が描いた満州帝国は潰滅、多くの犠牲者を出し、中国残留婦人、孤児を生むことになります。

司馬さんは後にこうも語っています。日本とソ連の戦車を比べると大きさから整備まではるかにソ連の方がすぐれており、戦争末期の新品戦車の砲塔などはボロボロで話にならない。これが歩兵なら運と勇敢と策略で抵抗できるかもしれない。しかし戦車隊は「物理的条件」を主に戦う兵隊ですから「これでは勝てん」と思ったが、どう仕様もなかった―と。

日本の戦車隊は全戦線にわたって敗北を続けていたので残り少なくなった戦車を日本の関東平野の防衛のために呼び返すことにしたようです。大陸の地上戦も制海空権も奪われたなかを韓国の釜山まで南下。戦車を船積して敵潜水艦攻撃にびくびくしながら日本海を北上、新潟に入港。昭和20年(1945)5月内地に帰還。福島県相馬ヶ原から栃木佐野に移動。本土決戦を覚悟していたところ8月15日終戦を迎えます。

駄弁になるが、学徒動員で出征した学生たちは敗戦により陸空海軍がなくなったので、兵役解除により失職したわけです。「命あっての物種」と上官も下士官もなく着のみ着のままで米兵占領下の故郷へ帰って行きました。「兵隊ボケ」をさまし仮卒免で就職を探す人や大学に復学する人、それぞれの道を選びます。また、陸軍士官学校や海軍兵学校の在学生は旧制高校、大学の入試が定員ワク内の2割に制限されるという狭き門でした。職業軍人出身の集団再起を警戒したGHQの思惑があったことを記しておきたい。

(庚午一生)

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