ふたりの時代【43】青木昌彦名誉教授への返信

掲載号 09年05月09日号

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70年安保闘争と私(9)

 年があけた1968年1月の米原子力空母エンタープライズ寄港阻止・佐世保闘争は大反響を呼んだが、私は現地に行かず、東京での留守番役だった。当初は、現地に向かいデモの指揮をとる決心であったが、「そんなことしたら、おまえつぶれるぞ」と強く止められた。2回の羽田闘争の現場責任者を務めたことで限界を越したと見抜いた人物がいたのだ。

 そうしたわけで、のんびりできると他人まかせにしていると、事態が予想を超えて進行して行ったので、すっかり狼狽してしまった。それまではデモの現場で行動しさえすれば良かった。支える側に回るのは初めてだった。

 朝、法政大学に集まった約2百人の首都圏の学生を見送ったのだが、もよりの国電・飯田橋駅で乗車直前、131人が、検挙されてしまった。まるで佐世保に行かせないための「予防検束」であった。逮捕を逃れた学生、途中の駅で乗車した学生らは、急行「雲仙・西海」で佐世保に向かった。しかし、博多駅で待ち受けた警察機動隊らは「身体検査」と称して襲いかかった。警備側の行動は、社会的非難を浴び、世論は学生の味方についた。

 佐世保闘争の高揚は、東京北区王子の米軍野戦病院開設阻止闘争と千葉県の成田空港反対闘争に受け継がれた。空港反対闘争が全国化して行くのもこのころである。ベトナム戦争が激化するなかで首都圏にも様々な影響が広がっていた。米軍燃料輸送列車が新宿駅で爆発炎上事故を起こしたり、羽田空港は米軍機・米軍チャーター機で溢れた。基地の街である神奈川県でも住民に深刻な影響がでた。埼玉県朝霞市の米軍野戦病院は負傷兵でいっぱいとなり、東京北区の住宅街に隣接した地域で野戦病院開設が進められるようになった。

 野戦病院開設中止を求める運動は、住民の高い関心のなかで連日展開された。全学連は3月28日に全力投球し、私は現場で指揮をとった。全国から集まった学生は野戦病院がある米軍基地に向かって突進した。そのうち49人が基地内に突入し、将校クラブを占拠した。

 実は、個人的には冷や汗ものだった。体力の衰えである。警備の阻止線を突破して全速力で走り、およそ2メートルの高さのコンクリート壁を乗り越えて基地に入ったが、危ういところで私は警備陣に追いつかれ、捕捉されそうになったのだ。最初はデモ隊の先頭で「突撃」と号令をかけたものの、次々と追い抜かれ、基地のフェンス前に到着するころには最後尾になってしまった。しかもほかの学生たちが軽々とフェンス越えをするのに反して、なかなかできないのだ。基地内にやっとこさ入ったころには、すぐ背後に警察機動隊が迫っていた。

 23日間の勾留を終え、起訴・保釈されてみると、以前とは雰囲気が違っていた。明らかに活動家たちは疲れていた。無理もないことだと思った。1967年10月から翌年の4月までの7カ月の間、走りつづけであった。大学内でしっかりした討論を行いながらデモを積み重ねていく余裕はなかった。行動で情勢を作り出し、作り出された情勢で新しい行動を生み出していく日々であった。その過程は活動家たちを大学と学生全体から引き離す現象を日常化させた。

 自らの行動への確信が揺らいだわけではない。しかし、自らの主張と行動の正当性を幅広く訴え、回りを説得することができないまま、狭い殻に閉じこもってしまう傾向であった。私のように、外界から遮断された留置場にいた人間には、学生のラジカルな行動の反動と逆風が跳ね返ってはこない。そのすべてが獄外の活動家たちの負担になったのだと思った。

 それぞれの活動家たちが大学にもどり、学生仲間との交流を再開することで癒される疲労であった。やがてその年の秋、全学連は再び成長した姿を登場させることになる。

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