戦争体験記 平和への祈り 小林美喜夫さんが語るシベリア抑留体験【中】

掲載号 07年12月15日号

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 ソ連は昭和20年8月8日日ソ中立条約をほごにして日本に宣戦布告し、満州・朝鮮に一挙に侵入した。

 そのころ小林美喜夫陸軍獣医務曹長はハイラルから鄭家屯(ていかとん)という小さな町に移動し、新たな軍務についていた。しかし小林曹長は、ソ連参戦の事実を一切知らなかった。いや、知らされていなかった。そのときの状況を小林さんは次のように記している。

小林美喜夫陸軍獣医務曹長

 ―そうしているうちに八月十二日になった早朝のことです。突然に鄭家屯の上空がただならぬ雰囲気になってきたので、軍司令部に電話をかけたのですがどうしたのか、なかなか通じないのです。

 次第にソ連機の飛来は激しくなるのに何度かけても司令部は電話口に出てくれないので、交換手に様子を見てきてくれるように頼んだところ暫くして、「司令部にはもう誰もいませんし私達交換手もどうしたら良いのか判りません」と言うのです。

 これを聞いた私は、腹が立つやら、がっかりするやら、やり場のない怒りでいっぱいでした。

 小林曹長らが「玉音放送」を聞いたのは、八月十五日の正午すぎのことだった。部隊を乗せた列車が奉天駅に停車してしばらくして、「下士官以上は全員ホームの拡声機の下に集合せよ」と命令が下った。正午の時報がなってから、はじめにアナウンサーから丁重な紹介がなされ、つづいて軍関係の人の説明があってから放送が流れた。そのときの心境を小林さんは次のように記している。

 ―私はあまりのシヨックにかけていたサングラスを外してホームの石畳の上に叩き付けたのを、今でも八月十五日の終戦記念日には必ず思い出します。

 部隊は十八日の午前十時ころ奉天駅をでて安東駅に着いた。その途中、在満日本人の避難民をいっぱいに乗せた列車をいくつも追い越していった。

 また小林さんは長い停車時間の間に近くの池のほとりに用便に行って、池に赤ん坊の死体がいくつか浮かんでいるのを目撃したという。飢えて死んだわが子をわずかな停車時間で埋めてやる間もなく、母親が泣きながら手を合わせ、池に捨てたのでしょうかと、語っている。

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