2008年9月20日村上水軍99の謎今井豊 謎その29 村上水軍は海賊からの成り上がりか、村上源氏の天下りか?村上水軍の文献を読んでいくうちに、村上水軍は「海賊もしくは廻船業者がだんだん組織化していって地域の豪族(武士集団)となり、伊予の守護である河野氏の臣下となって仕えていたが、主家の危機に際して村上義弘が活躍することで河野氏 […]
2008年8月9日村上水軍99の謎今井豊 謎その28 南北朝に村上水軍はどう戦ったのか?パート2 村上義弘・河野通尭を南朝に帰順させる恵良城から陣僧が村上義弘の下に、河野氏の切迫した事態を告げにきたのは正平20年4月20日頃で、報せを聞いた義弘はすぐさま義兄の今岡通任と協議した。 今岡家は河野家の一族であり、義弘も河野氏に臣従している身であるから共に主 […]
2008年6月8日村上水軍99の謎今井豊 謎その27 南北朝期に村上水軍はどうたたかったのか?パート1 讃岐細川氏の伊予侵攻と世田山城の合戦貞治2年(1363)に隣国讃岐の細川頼之が伊予に侵攻を始めた。 その頃伊予には南朝方の土居・得能氏の勢力が盤踞し、瀬戸内の島々には北畠親房の水軍戦略によって忽名・村上などの海賊衆が九州太宰府の征西府に協力しながら吉野朝と […]
2008年4月27日村上水軍99の謎今井豊 謎その26 村上水軍は元寇をいかに戦ったのか?ほとんどの部隊が石築地の後方に陣を構えたのに対し、河野通有は石築地の前方に陣を構え、この戦に賭ける並々ならぬ覚悟を示した。通有の心意気に、後に陣取る多くの将兵達は「河野の後築地」と呼んで称賛した。 元軍(東路軍)は、5月 […]
2008年3月9日村上水軍99の謎今井豊 謎その25 村上水軍・河野氏は元寇(蒙古襲来)をどう戦ったのか?第1次蒙古襲来である「文永の役」には河野氏も村上水軍も出陣していない。 第2次蒙古襲来である「弘安の役」に河野氏の当主・河野通有は村上水軍(村上氏当主・第4代村上頼久)を引き連れて参戦し、元軍の船に火矢をあびせて焼き打ち […]
2008年1月19日村上水軍99の謎今井豊 謎その24 河野氏と一遍上人との関係は?時宗の開祖であり、盆踊りの起源となった「踊り念仏」や国宝「一遍上人絵伝」で知られる一遍上人は河野氏の出であります。 一遍上人は「承久の乱」で僧であったために生き残った通広(通信の3男)の次男で、道後にある宝厳寺で延元元年 […]
2007年11月20日村上水軍99の謎今井豊 謎その23 河野・村上氏の承久の変にどう対応したのか?承久3年(1221)5月、鎌倉幕府と対立していた後鳥羽上皇は、執権北条義時を追討する院宣を下した。 この承久の変が勃発した時、河野通信の次男通政は、建仁の頃から西面の武士として院に仕え、後鳥羽上皇の孫を妻に迎えていた関係 […]
2007年10月28日村上水軍99の謎今井豊 謎その22 村上氏3代頼冬には嫡子はいなかったが後継ぎはどうなったのか?頼冬には男子がいなかったので、通信の弟にあたる通吉の子亀千代丸を養子として迎えている。これが日向守頼久である。こうして村上氏は河野氏の一族となった。 その頃、村上氏の館は、大島本庄の奥地田居の台地と、宮窪の二ヶ所にあった […]
2007年9月1日村上水軍99の謎今井豊 謎その21 源平の合戦で勝利した河野・村上氏はどういう恩賞をうけたのか?壇ノ浦の合戦を源氏の勝利に導いた河野通信の功績は大きく、鎌倉の由比ヶ浜で催された戦勝の祝いの席で功労の順に席が設けられていたが、源頼朝がまず第1席に座り、通信は第3席に座る程高い評価を得ていた。この第3席に座ったことが、 […]
2007年8月3日村上水軍99の謎今井豊 謎その20 壇の浦の合戦で源氏の勝因は?1.流説 従来から潮流が戦いの趨勢を決定づけて来たと云われて来たが、当日の潮の流れはそれ程速くなく、勝敗を決める大きな要因ではなかったという説が一般的になっている。
2007年3月13日村上水軍99の謎今井豊 謎その19 村上水軍は源平の合戦でどう戦ったのか?【3】村上水軍の将・頼冬は西寂と戦った後、軍船三百隻に河野通信の兵三千を乗船させて、屋島の源氏軍に加わり平氏を攻撃して讃岐国塩飽荘にまで迫った。この塩飽荘攻略に村上海賊が総力を結集して向かったのは、頼冬の父清長が平清盛のために […]
2007年1月21日村上水軍99の謎今井豊 謎その18 村上水軍は源平の合戦でどう戦ったのか?【2】父親の河野通清が粟井坂の戦いで戦死した頃、息子の通信は九州で平氏と戦っていたが、父の死で帰る拠点がなくなり、母方の里にあたる安芸の沼田氏を頼り、そこでも平氏方と戦うが利あらず、やがて越智大島鳴河図城主、村上頼冬に迎えられ […]
2006年12月14日村上水軍99の謎今井豊 謎その17 村上水軍は源平の合戦でどう戦ったのか?【1】その頃村上氏は河野氏の家来であったことから河野氏の下で戦っている。河野通清は息子の通信や通教とともに、治承4年(1180)の冬に高縄半島で挙兵した。通清は息子の通教に平氏方の伊予守惟盛がいる目代の館を攻撃させたが、かえっ […]
2006年12月1日村上水軍99の謎今井豊 謎その16「村上水軍は源平の合戦でなぜ平氏の地盤である瀬戸内地域にありながら源氏に味方したのか?」河野氏に隣接して敵対関係にあった新居氏が平氏方であったので、その頃圧倒的に不利であった源氏に味方せざるを得ませんでした。 源頼義が伊予守であった頃、河野家は親経の代でした。ところが親経には娘が一人あるだけで、男子の世継が […]
2006年11月10日村上水軍99の謎今井豊 謎その15「村上水軍は河野氏の家来だったのか?」定国が伊予村上水軍の祖となりましたが、定国が伊予大島に定着するようになったのは、祖父仲宗と河野親経が協力関係にあったことによります。 そういった経緯から、その嫡子讃岐守清長が河野通清の家来となりました。 清長は来島海峡を […]