子どもたちの輝く未来のために種をまこう 建築家・青山修也さん

しまなみ人リニューアルスタート第一弾にご登場いただくのは、向島在住の建築家青山修也さん(44才)。本業の建築家としてのご活躍にとどまらず、ご自宅の事務所部分を開放した「83ハチミツハウス」でのイベント開催や、「NPO法人むかいしまseedsシーズ」の代表として、大人も子供も安心してのびのびと暮らせる未来を思い描き、色々な種(seedsシーズ)をまこうと活動されています。向島の83ハチミツハウスにてお話を伺いました。

83ハウスの前で。大きなガラス扉はウェルカムの気持ちを表す。

<プロフィール>

青山修也さん

―― 大学は建築とは畑違いの農学部のご出身だそうですね。

大学で環境問題を勉強したかったんです。
当時は環境について学べる学科は少なく、環境というと工学部か農学部でした。
中学生の時にチェルノブイリの事故がありいろいろと考えさせられたときに、やはり農業だと思いました。農業とか林業を何とかしないといけないと。それで農学部に進学しました。

そのころ環境問題というと、出したごみをどうするかというリサイクルや処理方法が注目されていたんですが、でもそこじゃないだろうと。もっと根本的に大事なことがあるだろうと勉強しながら気づいて。なんとなく自分がやりたいのはこれじゃないなと思い始めました。

卒論は環境問題ではなくハーブの研究をしました。ルッコラとかレモンバームなどいくつかのハーブを環境を変えて育てた場合、どのくらい香りが違うかという基本的な研究です。まだハーブが今ほど知られていなくて、種の入手も困難な時代でした。

―― 卒業後はどんな業種に就かれたのですか?

土木設計の会社に入りました。
農業土木という業界があって、都会の土木だと道路を造ったりトンネルを造ったりなんですけど、田舎だと田んぼの整備をしたり暗渠あんきょ排水の整備をしたりするんですよ。
昔ながらの段々畑を四角い形にするとか小川をコンクリートで固めて溝にするとか、今考えるといらないお世話なんですけど(笑)。あと砂防ダムという土砂をき止めるものを造ったりため池を造ったりという、農業に関わる土木設計の仕事をしていました。
わざわざ自然の形を壊すわけですから、なんか違うなと思ってそこは2年弱でやめました。

仕事を辞める前から「どう生きるべきか」と悩んでいたんですが、仕事を辞めてすぐに何か月か旅に出ました。ミラノに親戚がいたのでそれを頼ったりして。大学時代からよく外国には旅をしていました。
美しい街を見ながら「おー、こういう暮らしがあるのか、自分が目指しているのはこういう暮らしなんじゃないか」とか。貧しい国に行っても子供たちは笑ってるなとか。あそこのお父さん何してんのかわかんないけどなんか幸せそうだなぁとか(笑)。
旅をしている中で色々と考えるところもあって、そして日本に戻ってきて….。

―― その後建築との出会いがあったんですね。

自分が育ったのは福山の草戸町というところなんですが、周りは三角屋根の木造住宅ばかりで魅力的な建築物もなくて、建築家というのは僕の選択肢にはありませんでした。
大学卒業後に就職した会社に建築学科を出た同期や先輩がたくさんいて、建築の話をするうちに興味がわいてきて、そうか、建築家という職業もあるんだと気づきました。なんか面白そうだなというのはその頃から感じていました。

僕は趣味で風景写真を撮って個展も開いたりしていたんです。写真もいいけど、もっとこう自分をアピールというか表現できることがないかと考えたときに、建築に行きついて。
建築は空間や場を作るということですごく魅力的だし、自分の手には負えないないかもしれないけど、チャレンジする価値があるんじゃないかと思いました。

それで建築が学べる学校を探して早稲田大学芸術学校に出会いました。
そこは三年制なんですが、僕みたいに一度大学を卒業して勉強しなおしたい人とかダブルスクールの人とか、もっともっと年配の人とかが集まっている学校で、あ、こんな学校があるんだ、面白いなと思って見学に行きました。そしたら印象がすごく良くて、先生方も今まで会ったことがないような方々で、なんかゆるいというか好き勝手やってるというか(笑)。
田舎にはなかなかああいう人いないなと気に入って、じゃあここに行こうと決めました。

早稲田の建築学科の二部みたいな学校で、夜間の学校です。キャンパスは早稲田大学の中にあって、先生たちも早稲田の先生がメインでいてその周りに他の先生もいて。
その時点で僕はすでに26歳だったので、また三年間勉強するのはちょっとしんどいなという気持ちもあったんですけど。
大学受験の時は人が多すぎてあんまり東京には行きたくないと思ったんですが、いろんな経験を経て26歳にもなると、東京に目的があって行くというのはいいなと思えました。

―― 学校生活はいかがでしたか?

尊敬する先生がいて、建築という職業はとても楽しそうだ、面白そうだと思って勉強していました。当時はどこかに勤めながらではなく、WEBサイトを作ったりする仕事を自分でしていました。一緒に勉強している人たちもとても真面目というか、やる気のある人たちで刺激になりましたね。それまであまり真面目に生きてる人に出会わなかったのかも知れない(笑)。

土地柄もあるかもしれないけど、こっちは温暖な気候じゃないですか。
サラリーマンやってても三割か五割くらいの力で生きて行けるというか、全力で生きて行かなくてもそれなりに生きて行けるというか(笑)。
でもそんな生き方はいやだな、全力で生きなきゃって思ってたときに建築に出会って、これは全力で取り組む価値があるなと思いながら勉強していましたね。

卒業後は「青山修也建築計画」という個人事務所を開きました。卒業後も大学の鈴木まことという先生の研究室に所属して、尊敬する先生の個人助手みたいな感じでマンツーマンで建築の勉強を続けていました。

83ハウスの2階はワンフロアーで広々とした居住スペース。

―― 東京暮らしは楽しかったですか?

東京には15年弱いましたけど、楽しかったですね。やっぱりいろんな人がいるのがいいです。もちろん建物や街も面白いし。
当時代々木上原に住んでいたんですが、代々木公園や駒場公園、東大のキャンパスもあって緑は多いし、歩いてすぐ街にも行けるし、車がなくても自転車でどこにでも行っていました。
近くにルヴァンという天然酵母パンのお気に入りのお店があって、毎日のように行っていました。お店の人とも仲良くなりましたね。環境はすごく良かったですよ。まぁここに比べたらあれですけど(笑)。

―― Uターンされたきっかけを教えてください。

2011年の東日本大震災がきっかけです。
東京で結婚して子供も二人いて。震災の一週間後くらいにとにかくこっちに避難しました。
震災翌日に東京から福山の実家に「電池送って!」「水送って!」って切迫して電話しても母は「何言うとん?」みたいなね(笑)。東京と福山ではかなりの温度差がありました。でも福山でも電池が売り切れて無かったんですよ。水もなくて。

将来的にはUターンしたいと思っていたんですが、震災によって時期が早まった感じです。子供の幼稚園の入園時期もあったし、仕事も東京でもこっちでも同じだろうから、じゃあもう帰ろうかということになりました。
仕事に関しては、むしろこちらの方が建築家がしなきゃいけない仕事がたくさんあるのに、それが工務店だったりに建築家を介さずに行ってしまっているので、そういう意味ではこちらの方がやりがいがあるし、こっちでしかできない仕事というのがありますから。
東京はもう優秀な人がたくさんいるから、その人たちに任せておけば心配ないし(笑)。
一時避難を経て、2012年に正式に家族4人でUターンしました。

かつて蚕が飼われていたという2階。松丸太の立派な梁。

―― 最初は福山にUターンされたそうですね。

福山の駅家というところに以前祖父母が暮らしていた家が空いていたので、とりあえずそこに住みました。そこはとても不便な場所で車がないとどこへも行けないような山の中でしたが、畑もあるすごく広い家で、田舎暮らし初体験!みたいなとてもいいところでした。

向島に来たのは2015年の4月です。長女の小学校入学に合わせて移住しました。
今の家は築90年以上はたっていて、10数年空き家になっていたんです。もともとは蚕を飼っていたそうです。延床面積300平米の大きな古民家をリノベーションして、2階を居住空間、1階を僕の事務所兼大人数の催しもできる私設の公民館のようなスペースとして使っています。

―― そのご自宅を「83ハチミツハウス」と名付けて様々な催しをされていますね。

大家さんがハチミツを作っているので「83ハチミツハウス」とネーミングしました。
コンサートをしたり服の展示会をしたり、子供の英会話料理教室をしたり。定期的なものとしては「83ハチミツ話会わかい」という、テーマを決めてゲストを呼ぶ対談形式のお話会をしています。ゲストは主に備後地方で活躍している人です。結構近くにもいろんな活動をされている面白い人がいっぱいいます。

1回目は建築家と大工さんを呼びました。大工さんはフランス人の大工さんで、建築家は杉原一正さんという松永に住んでいるこの辺でも顔の広いみんなに愛されるおじさんです(笑)。この秋には日本酒の会と銘打って神石高原と上下町で日本酒を作っている蔵人の対談を企画しました。
話を聞く人も日本酒を飲みながらリラックスして、けっこう面白かったですよ。また春にやろうと思っています。告知はSNSと口コミだけです。それだけで20~30人は集まりますね。スペース的には最大50人は入りますが、駐車スペースのこともあるしこのくらいがちょうどいいかなと思っています。

83ハウスは築90年の古民家をリノベーションして誕生。

―― 「NPO法人むかいしまseedsシーズ」を立ち上げたきっかけを教えてください。

向島に子育て支援センターをつくるという話があって、妻や周りのお母さんたちが何度か説明会に行っていました。僕も一度行ってみたんですが、周りのお母さんたちからぜひやりたいという声が上がって。

でもお母さんたちで子育て支援センターの運営のためだけにNPO法人を立ち上げても、自分の子供たちは子育て支援センターを利用する年齢はもう過ぎているし、だんだん子供の年齢がかけ離れて来るから続けるうちに気持ちも離れてしまうんじゃない?けっこう大変だよと言いました。NPO法人にすると書類作りとかやりたいこと以外の仕事がたくさんあるし、それはそれで大変なんじゃないかと。でもお母さんたちはこんなチャンスはないからぜひやりたいと言って。

僕も東京にいるときに幼稚園や保育園の設計を担当していてそういう業界もよく知っていたし、家で仕事をしているから自分の子供の子育てもよくしていて。
妻は幼稚園教諭だったときにカリスマ的な人気があったのですが、海外で育った経験もあって、子供が生まれてから自宅で子供のための英会話教室をやっていました。だから東京にいる頃から子供がいっぱい来る家でした。それまではあまり子供と接する機会もなくて興味も向いていなかったんですけど(笑)。
そういう環境で日々子供たちを見ていると、まさに建築に出会った時のような感じなんですよね。

子供を育てるというのは面白いし未知の世界だし、これからすごく大事だと思いました。建築を考えるときも子供の場所を考えるというのが大事だと感じていたので、そうか、じゃあ子育て支援センターの運営に関われるのは僕にとっても恵まれたチャンスなんじゃないかと思ったんです。

支援センターの運営者は公募されるので受託できるかどうかは分からないけれど、これも何かのきっかけだし、子どもたちの未来のために活動するNPO法人をとにかく設立しようという話になって、僕の中でもイメージは大きく膨らんでいたので、よしっ、やってやろうと決心しました。

玄関を入ってすぐのライブラリースペース。

―― むかいしまseedsシーズのこれからについてお聞かせください。

設立のきっかけは子育て支援センターの運営でしたが、地域で安心して子育てできる環境を作る活動や、人が集ったりつながりあえる場を作ることを目的としています。

子育ては子育て支援センターに行っている年齢だけじゃなくて、小・中・高と続くわけです。
学校に行けない子もいて、行きたくない子もいて、行かせたくない親もいて、今の学校教育に疑問を持っている人はもっとたくさんいて、そういったことも全部ひっくるめて、子供のために何をすればいいのかという考え方で我々も生きて行く、考えていくという大きな構想と夢のある組織にしたいなぁと思っています。

何かに困っている個人が集まって同じように困っている人たちを助けようと活動していることがいろんなところでありますけど、個人だと情報の発信力が弱いので、本当に情報を求めている人まで届かない場合が多い。だからNPO法人のように組織化して発信することで、書類作りなどの雑務は増えますけど情報が広く行きわたるし活動の輪が広がると思います。個人の意見や行動を尊重しながらふんわり覆うような。個人より行政ともつながりやすいというメリットもあります。

例えば子供が遊ぶ場所や通学路に除草剤をまいているのを見てまかないでほしいと言ったり、お接待や子供会の行事で配るお菓子やジュースは添加物だらけなのでお餅をついて配るとかにしませんかとか、そういったことを言うのもちゃんとした組織にしたほうが伝えやすいなと思いました。
一人が勇気を出して発言すると、実は私もそう思っていたという人がどんどん出てくるので、そういった人を仲間に入れて輪をつくるというのが次の世代を良くするための手がかりだと思うんです。
すでに何かやっていたり、これから何かやりたいと思っていて仲間を増やしたい人は、どんどんむかいしまseedsシーズに入ってもらったらいいと思います。

83ハチミツハウスでイベントをやるにしてもそうなんですけど、20人30人は僕らの周りだけですぐに集まるんです。でも仲間内だけでやっていると活動が広がらないですよね。ほんとに近づきたい人はその周りに倍だったり何十倍だったりいるので、その人たちに参加してもらわないと次の段階に行けないなと思っています。
僕はもう今の状態でも幸せで、20人30人来てくれればそれで楽しいんですけど(笑)。
でも、それだと世界は変えられないですよね。

1階のイベントスペース。この日は卓球台が出してありました。

取材日:平成28年11月30日

「向島子育て支援センター」の開所準備でお忙しい中、取材依頼を快く引き受けてくださった青山さん。毎月第1日曜日に尾道商店街で開催されている人気のマルシェ「おのみち家族の台所」の会場デザインも担当されているそうです。「お金にならないことばかりやってるんですよ」と笑っておられましたが、その目はキラキラしていてとても楽しそう。青山さんの面白そう、楽しそうが形になっていくのを、これからも楽しみにしています。

聞き手:大西理恵(しまなみ人編集部)

向島子育て支援センター「はぐ」オープン

青山さんが代表を務める「NPO法人むかいしまseedsシーズ」が運営する向島子育て支援センター「はぐ」が平成29年1月17日にオープンしました。

センター長は幼稚園教諭10年のキャリアをお持ちの青山さんの奥様・路巳ろみさんが務められます。

キャッチフレーズは
地域で「はぐ」くみ
みんなで「はぐ」くむ
だきしめる。「はぐ」する

対象は未就学児さんと保護者の方で、妊婦さんも大歓迎だそうです。ぜひのぞいてみてください。

開所日:毎週火・水・金、第3土曜日(その前日の金曜日はお休み)
※ 祝祭日・年末年始はお休み
時間:9:00~12:00 / 13:00~16:00
場所:尾道市向東町8743-2(旧向東支所内)
問合せ:尾道市子育て支援課 TEL0848-38-9215

開所式後は地元グループによる読み聞かせがありました。

(YouTubeより)

筆者紹介

大西理恵
大西理恵ボランティアグループ夢の樹代表
2014年より向島在住。牡羊座のA型。

ナオト・インティライミをこよなく愛するアラフィフです。活動的で好奇心旺盛、物おじしない性格。このへんの方言で言うと小さい頃からじゅんならんタイプです。

子育て環境を考え、20年の都会暮らしにピリオド。2003年に故郷因島にUターンしました。海に山に恵まれた瀬戸内で、四季を満喫しながら子育てできたことは宝です。

都会暮らしを経て故郷にUターンしてみると、若い頃には感じなかった瀬戸内の良さをしみじみと感じます。橋を渡るときの美しい景色は言うまでもなく、夕陽にいたっては感動という言葉も決して大袈裟ではないほど。

美しい風景だけでなく、周囲に話を聞きたい素敵な人がたくさんいることにも気がつきました。その方達に、取材という名目でお会いしてお話が聞けるのですから、こんなラッキーなことはありません!

しまなみ地域の魅力的な人や場所をぼちぼち発信して行きますので、乞うご期待!

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