謎その43 脇屋義助の子孫はどうなったのか?

伊予に下向して病死した脇屋義助(わきやよしすけ)の子・義治や、新田義貞の子・義興と弟義宗は、越後の国で南朝の兵を挙げ、文和2年(1353)11月5日に北朝軍の和田義成・景茂に苅羽郡小国城を攻められ落城した。それから、宗良親王・新田義宗・脇屋義治は没落して、出羽国羽黒山に落ちて再興を計ったが果たせず、宗良親王のすすめで、村上師清を唯一の頼みとして、永徳4年(1384)正月に越智大島に落ち延びてきた。

村上師清は脇屋義治とその一族に大島内の稲井城を与えた。義治は安住の地を与えられたことを喜んで姓を稲井に改めた。

しかし、師清もすでに幕府の軍門に降り再起の力はなく、義宗、義治の温泉郡湯の山日浦に蟄居させて、土居・得能氏に保護を依頼した。

やがて、義宗・義治は宇和郡に送られたが、義宗の三男と娘、義治の次男の3人を村上師清は引取り、自分の子として末長く養育することを約束した。

その後、まもなく師清は亡くなり、村上氏宗家を継承した長男義顕は、父の遺言をよく守り、3人の幼児を舎弟として養育し、成長すると新田義宗三男を村上義久、脇屋義治次男を村上義俊と名乗らせた。

そして、村上義久には自分の妹を嫁がせ、村上義俊には自分の姪を嫁がせた。新田義宗の娘・好姫は義顕の三男左馬太夫の嫁とした。

その子孫である稲井勘解由左衛門尉家治は因島村上の次席家老となり、土生小丸城主を本拠として2048石を領して対支那貿易を担当していた。稲井氏の館は土生町郷の対潮院のある所にあった。

慶長5年(1600)9月に村上元吉と伊予古三津浜の戦いで討死した稲井義直は末孫になる。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

謎その43 脇屋義助の子孫はどうなったのか?”へ8件のコメント

  1. 新田義宗の子孫 より:

    先日、時間をかけて、北陸から新潟まで先祖供養に行ってまいりました。福井の藤島神社の宮司様より、能登の十村役を務めた喜多家の当主を紹介されて、お会いしたところ、喜多家は愛媛が元々の地で、義宗の末孫の子孫とお聞きしてまいりました。当方、新潟高柳町の板畑の中村本家の孫です。新田家の事は、一子相伝になっております。私が調べたところ、当家の菩提寺の安住寺の戒名と板畑のお墓は新田義貞の正室、義貞の嫡子、新田義宗のものでした。不思議なのは、家紋が村上水軍の丸上でした。義宗と義治が四国に逃げたことは伝説とも言われておりますが、当方の家紋が丸に上になっていることからも、関連性は高く、私自身も、もう少し調べてみたく思っています。私の推測ですが、義宗の子供も何人かおり、越後においてきた子孫と、四国でもうけた子孫の両方が存在するならば、実話ではないかとも思うようになりました。その辺、何かわかりましたら、お教えください。当方、先祖の一族の、血縁関係深く、祖父が平家の棟梁の子孫を娶るまでは、代々、一族内の婚姻です。新田一族の正田美智子様(皇后様)が天皇陛下と御婚姻の前に、宮内庁が当家を調べに来たそうです。当方の確実性は高いです。何か情報交換できれば幸いです。
    よろしくお願いいたします。
    メールアドレスはヤフーのアドレスにします。

    1. 佐藤 より:

      新田義貞の孫・貞方の庶子といわれる貞政、貞長兄弟のうち、奥州宇多郡駒ヶ嶺に逃避隠棲した貞長の末裔といわれる新田氏が伊達氏に仕え、元禄初頭に中村に改姓し子孫の方が現在も健在です。新田の出とする家康に憚り、伊達の出自である中村姓を伊達氏から賜ったそうです。
      小生の先祖が、明治維新まで170年間、仙台藩の地方(じかた)領主を務めた地で中村氏の家臣だった関係もあり、現在に続く、新田義貞の嫡系、傍系の末裔の方を調べています。貴家の家祖がどこから枝分かれしているのか、分かる範囲で教えていただけないでしょうか。

      1. 脇屋 義明 より:

        私は、脇屋義明と申します。
        私の家に家系図があり、脇屋義助の末裔に当たります。
        因みに、代々「脇屋義〇」と、名前に「義」が付いており、家紋は新田紋(大中黒・新田一つ引)です。
        よろしくお願い申し上げます。

  2. 脇屋 より:

    先祖の事を調べていて、ここに辿りつきました。
    詳しい歴史などは全然わかりませんが、鎌倉に古い家系図が残されていて、先祖は新田義貞の弟、脇屋義助となっています。
    余談ですが、曽祖父は新潟の大きな庄屋さんで、大地主だったのですが、内村鑑三さんに当時直接お会いして感銘を受け、キリスト教徒になったとか。その際、周りの農民達に、土地を無償で分け与え、苗字もみんなに「脇屋」をあげたと聞いています。

    1. 中馬 より:

      脇屋氏は、私の先祖ですが、義治は、丹波篠山において白藤城を、築城し、後に中馬と姓を改めと、家系図に記述されています。家紋は。丸に一、鳳凰と二つ家系図にありますが、なんででしょうか?

  3. 村上羅漢 より:

    《新田義宗の娘・好姫は義顕の三男左馬太夫の嫁とした》との記述に大いに関心を抱きました。
    《新田義宗三男を村上義久、脇屋義治次男を村上義俊と名乗らせ》という内容は『能島・来島・因島 由来記』で見ましたけれど好姫の消息は初めて目にします。
    出典をご紹介いただければ有難く思います。
    よろしくお願いいたします。

  4. 佐藤正人 より:

    私の母は新潟県中蒲原郡村松町生まれで脇屋姓でした。母からは、村松町の慈光寺にゆかりがあること、楠木正成とかかわりあると聞いております。縁あって、わたしは、群馬県佐波郡玉村価町で生活しています。新田家、脇屋家ゆかりの太田市に引き寄せられている様にも感じています。先祖のなかには、脇屋勘之丞という人がいるいうです。なにか情報ありましたら、教えて下さい。

  5. 川崎一仁山中一仁 より:

    当方、家紋が丸一で、ルーツは愛媛と高知の県境にある池川町てす。たまたま家紋に詳しい方から教えていただき、脇屋義助がこの家紋のルーツと伺いました。四国というと平家の落人が有名ですが、源氏の落人の方が新しいとのことも教えていただき、意外でした。てっきり平家と思っておりました。ちなみに、何代前か分かりませんが、先祖の名前は山中太郎座衛門といいます。もしよろしければ、何かお心あたりがあればお教えください。山中一仁。

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