謎その32 河野氏と村上水軍は伊予に戻ることが出来たのか?
足利幕府の実権を掌握した細川頼之は、第3代将軍になった義満へのはなむけという名目で、応安元年(1368)の年明け早々に、再び伊予平定に乗り出した。河野通直は伊予から退却したが、なお伊予国内には河野一族の国人衆が多く残留していて北朝軍に抵抗していたからである。
こうして国人衆の拠点が次々と細川方によって落とされていく報に接し、九州の征西府にいた河野通直は伊予奪回を決断した。
6月の初め、河野通直は懐良親王から伊予奪回作戦を遂行することの許しを得て、6月4日に豊前根津ノ浦に出て、村上義弘、今岡通任ら諸将に呼び掛けて軍船を調達させて、60数名で6月17日に伊予に向けて出港した。
6月20日に周防屋代島に到着し、付近の島々から続々と味方が馳せ参じ、河野通直は参集した諸将と作戦会議を開き伊予上陸作戦を練った。軍船30余艚に分乗した約200騎が6月30日に伊予松崎浜に上陸した。
この通直軍を迎撃しようと細川方が駆け付けたが、上陸軍はたちまちこれを撃破した。
通直方の勝報が伝わると、国人衆が馳せ参じ軍容はたちまちふくれあがった。通直はその軍勢を海陸の二手に分けて、陸上部隊は今岡通任が、海上部隊は村上義弘が主力となった。
勢いに乗った通直の率いる陸上部隊は、閏6月11日に大空城を攻め落とし、同13日夜、細川方の6将を自刃させた。9月に入って屈辱の風早郡恵良城を攻め、9月16日に城兵を残らず城外に退去させた。
翌年8月になると東予の新居・宇摩の両郡に軍勢を進め、高外木城を占拠した。
こうして通直は念願の伊予奪回に成功したのであった。
筆者紹介
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因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。
このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。
私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。
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はじめまして、周防屋代島(現在は周防大島町)で今年の7月から村上水軍研究会を立ち上げ、その事務局を担当している西原と申します。
今朝の中国新聞を拝見してメールさせていただいています。
この地に村上武吉の居城と墓地があり、子孫が住んでいます。
この大島にとってはかけがえのない歴史遺産と考え、発足しました。
会長は元中学校の校長先生で恩師、史跡調査に携わってきた実績があり、メンバーには同級生の町長、お寺の住職、お宮の神主、中国新聞支局長、主婦など多彩です。
将来は、子孫の家の一角に記念館を建設できたらと目論んでいます。是非お知恵を拝借させて下さい。
宜しくお願い申し上げます。
西原 嘉文 拝
携帯090-1015-0630
固定電話兼fax0820-75-1790
えと、、 わたし河野水軍の子孫らしいのですが河野水軍はすごいんでしょうか??