謎その23 河野・村上氏の承久の変にどう対応したのか?
承久3年(1221)5月、鎌倉幕府と対立していた後鳥羽上皇は、執権北条義時を追討する院宣を下した。
この承久の変が勃発した時、河野通信の次男通政は、建仁の頃から西面の武士として院に仕え、後鳥羽上皇の孫を妻に迎えていた関係で、後鳥羽上皇方(宮方)に付いた。京に攻め上がった北条義時の軍勢と広瀬で戦い、敗れて単身本国に逃げ帰った。そして長男の通俊、その子通秀など河野一族と高縄城に立て籠もった。しかし、阿波・土佐・讃岐・備後などの幕府方の御家人衆達に城を取り囲まれ、承久3年7月8日から14日にわたる7日間の戦いで城は陥落した。
こうして、宮方に味方して敗北した河野氏は、幕府より厳しい処分を受けることとなった。河野家の主君であり、河野氏興隆の最大の功労者である通信は捕られて、鎌倉に送られた後、出家入道して平泉に流されたが、寛喜2年(1230)2月5日に享年68才でこの地で没した。
- 長男通俊は、高縄で戦死、その子通秀は母親とともに捕われて鎌倉に送られ、下総国に流された。後年、千葉介成胤に取り立てられ、妻に足利義氏の娘を娶り、しばらくして旧領地であった周桑郡得能に帰り、得能氏と名乗った。
- 次男通政は、皇室との関係が深かったためか、信州広葉で殺された。
- 三男通広は、父通信と同様捕らえられたが、後に赦免となり入道して如仏と号した。
- 四男通末は、信州判野庄に流された。通末の同族になっていた村上頼久は流罪は免れたが、領地は関東方の御家人となっていた大三島の大祝安時に社領として没収された。
- 河野一族の中で、五男通久のみが辛うじて助かった。
筆者紹介
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因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。
このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。
私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。
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