造船マンはスポーツマン! スポーツでいつも元気はつらつ! 近藤正さん

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近藤正さん

<プロフィール>

近藤正さん

  • 昭和8年(84歳)愛媛県今治市宮窪町(大島)生まれ。尾道市因島三庄町在住。
  • 昭和21年日立造船因島工場入社。
  • 元日立造船因島厚生会「女子バレーボールチーム発起人・監督」、NPO法人しまなみスポーツクラブ「ラージボール卓球クラブ発起人」、三庄グラウンドゴルフクラブ、しまなみグラウンドゴルフクラブ所属。

今や高齢者に大人気のスポーツ、グラウンドゴルフで数々の大会に出向き、優勝を飾っているスーパーグラウンドゴルファーが、因島三庄町に居る。近藤正さん(84歳)。一緒に始めた妻と二人で、これまでに得た優勝タイトルは何と25個。居間のカップボードには、所狭しと優勝カップやトロフィー、盾などが並んでいる。2位や3位の賞状は、数え切れないほど。ゴルフの話になると、話が止まらない。他にもスポーツ暦の多彩な近藤さんに、お話を伺いました。

まずはグラウンドゴルフ暦を教えて下さい

64才ごろから始めて、丁度20年になります。三庄GG(グラウンドゴルフ※以下、略)と、しまなみスポーツGGの二つのクラブに入っていて、週に5日は、三庄ふれあい広場で練習をしています。たまたま、三庄中学校が廃校になって、その運動場跡地が三庄ふれあい広場となり、近いこともあってほぼ毎日行っています。前は、午前中に三庄で、午後からは御調まで車で出かけて行って、朝も昼も練習していた頃もありました。試合は、年に30回前後。なので一ヶ月に2、3回は試合があるペースです。岡山や広島、三次、世羅、まで出かけて行き、参加賞に温泉入浴券があることも。グラウンドゴルフ発祥の地の鳥取県泊村にも試合で行きました。ちょうど小旅行のような感じで、楽しんでいます。

今グラウンドゴルフは、全国的に流行っているスポーツで、これからもまだまだブームは続きますよ!良い点は個人プレーが可能なところ。気楽に参加しやすいんです。しまなみGGクラブも、どんどん人数が増えています。

近藤さんにとってグラウンドゴルフはどんなものですか?

定年後の人生の約7割を、グラウンドゴルフが占めていると言っていいでしょう。目標はダイナミックなプレー、そして一番になること。夫婦二人で同じ趣味を真剣に出来てることも、ええんじゃと思います。

テレビでは、ゴルフを良く見ています。プロのフォームを見るんです。やっぱりスポーツだから人が見てかっこいいナーという感じを与えないと、ただ打ったらえーわじゃだめ。グラウンドゴルフにはプロがいないので、大体の人が基礎を飛ばして自己流でやっていますが、それでは上手くならない。自分で勉強して、どうやったらきれいに見えるか研究します。そうすると自然と服装もきちんとなってくる。尾道市の大会で優勝したこともあるし、広島県の大会では、準優勝しました。いまや全日本大会や世界大会もある人気スポーツなんです。

以前は、どんなスポーツをされていたんですか?

しまなみスポーツクラブの前身、ラージボール卓球クラブを作ったのは、私です。

40年間日立造船に勤めて定年退職した後、何か進路を変えて地域のために自分に出来ることはないかと考えていました。たまたまその頃、高齢者向けのスポーツとしてラージボール卓球が開発されました。それで私と昔一緒に卓球をやっていた4人が講習を受けに行って、因島のあちこちや瀬戸田のB&Gまで教えに行っていました。12~13年ラージボール卓球を続けました。今でも、ラージボール卓球は人気のあるスポーツです。

若い頃は、卓球もされていたんですね。

昭和21年に日立造船に入社。そこで会社の厚生会の、卓球クラブに入りました。その頃は、全国から若者が集まってきていて、和気藹々と休みにはスポーツを楽しんでいました。昼休憩には、職場対抗ソフトボール大会などもあり、土生町安郷の日立グラウンドで試合をしたりもしていました。卓球は、今の因島総合病院の敷地辺りに、備後クラブという娯楽場があって、そこで昼休憩や、定時間での仕事帰りに、皆で集まって卓球をしていました。そのほかに、職場ごとに卓球台があって、その頃はみんなどこでも卓球をしていました。

でも、私は身長が高かったから、バレーボールクラブに引き抜かれて…。

バレーボールもされてたんですか!!

卓球から変わって、その後24~25年間アタッカーとしてやりました。

この近辺では、三原の帝人がバレーボールは強かったんですが、たまたま因島出身の中村さん(土生)という人がいて、その人がコーチとして来てくれていたんで、土生の小学校や、当時土生にあった因島高校の体育館まで、仕事帰りに行って教えてもらっていました。

ちょうどその頃、東京オリンピックで優勝した女子バレーボールチームが「東洋の魔女」といわれた全盛期で、厚生会でもバレーボール女子部を作ろう!ということになりました。それまで厚生会は、男子を対象にしたものしか無く、会社に掛け合うと、「実績を作ったらチームとして認めましょう。3回優勝カップを持って帰ったなら、お金も支援します」と言われて…。よっしゃ!それならと、因島じゅうから20~30代の女子のバレーボール選手を9人より抜きチームを作りました。私が、コーチです。それから、福山、尾道、三原、広島など色々な大会に出て、本当に3回優勝しました。晴れて、厚生会に女子バレーボールチームが認められ、私は監督になりました。テレビ放送のあった試合で、主力選手が捻挫するというハプニング、それでも勝ち取った準優勝は今でも忘れられません。

それから、因島各地にママさんバレーチームを作りましょう、ということになり大流行。当時、三庄町だけでも男女合わせて15チームぐらいありました。学校の先生チーム、生協のチーム、病院のチームなどなど。安郷の日立グラウンドでは、1,000人を超すプレーヤーが集まって、試合もしました。三庄中学校のグラウンドでもやりました。まだその当時は体育館が無かったですから、外で青天井でグラウンドにコートを何面も描いてやってました。いろんなスポーツがありましたが当時バレーボールは花形だったんよね。全日本から誘いがあったような後輩もおります。

バレーボール時代の一番の思い出は何ですか?

もちろん、東京オリンピック(昭和39年)優勝後の全日本女子バレーボールチームの大松博文監督が因島のこの三庄の体育館に来られたことです。

昭和45年4月20日、当時、島で一番新しかった三庄中学校の体育館に、大松監督とエースアタッカーだった佐々木節子選手が来たんです。そして、たまたま私が日立造船厚生会の女子バレーボールチームの監督だったというご縁で、サイン色紙をいただきました。(写真)バレーボール人生の一つの形見いうんかね。

この一大イベントは、会社人事部の杉山さん(三庄)や財間さん(三庄)、玉井さん(土生)方々が非常にスポーツに理解があり尽力してくださった。私より4~5歳年上で、因島では一番だったバレーボールの先輩、玉木さんは麻生旅館(土生)の出で、口ぞえをしてくれ大変力になってくれた。皆が応援してくれて実現したことです。決まったときはみんな、うそじゃろ!?と言っていました。

大松監督は、見た目大人しい感じだがいつもピリッとしていて、怖さはないけど隙が無い感じでした。佐々木選手のアタックのデモンストレーションは、ものすごいスピードで、球がかすめた瞬間、レシーバーの髪の毛が横になびいたのを今でもはっきりと覚えています。三庄中学校の体育館には、すごい沢山の人だかりで、今でも「あの時、行ったよ!」と時々言われることがあります。

スポーツマンの近藤さん、小さい頃はどんな子どもでしたか?

出身は今治市の大島です。学校が済んだら、4、5人で集まって、泳いでかえりょったような泳ぎ好きでした。潮の流れが良くて、浮いていたら帰れた。じゃんけんで負けたもんがカバンをかついで山を歩いて帰りました。

引き潮の時に歩いて行けた宮窪町の戸代鼻(とだいばな)は、天然の水晶が採れた。村上水軍の城址がある能島近くの渦を巻く潮流は、ほんまに何ともいえん奇麗で、櫓でこぐ舟は2、3人で交代しながら必死で漕いだ。遅いときには夜の8時や9時に海を舟で渡った。目の前の鵜島(うしま)には、お盆の時期に地域の人が皆んな集まって盆踊りをした。

そんな少年時代だったので、定年したら自分の船を買うと決めていました。妻も釣りが好きで、3年前に船を手放すまで、20年間船釣りを楽しみました。

他の趣味もありますか?

詩吟は師範の資格まで取って、広島の郵便貯金ホールで謡ったこともあります。腹式呼吸で声を出すのは身体にいいし、あちこち教えにも行っています。庭の剪定や盆栽もやります。サツキ盆栽や鯉の品評会に出したりしたこともあります。負けん気が強くて、たいていとことんやるタイプ。それと、わたしは運がいいんです。

今日の朝ごはんと、普段の一日のスケジュールを教えて下さい

  • 朝食は、パンとりんご。好きな食べ物は、ハム。
  • 朝7時朝食、昼12時昼食、夜5時夕食。これは結婚して、日立で働いてた時から、今もずっと一緒。妻はえらいと思います。
  • 午前中、グラウンドゴルフの練習。午後、趣味で庭いじりや書き物、合間にカラオケ。
  • 夕方は、妻とウォーキング。20時には寝ます。

今後の夢を教えて下さい

自分のことは自分で出来るように在ることです。

できるだけ足を動かし、座っているときは何かを書いている。じーっとテレビを見ることは無いです。まずは85歳までグラウンドゴルフが出来ること、一年一年が目標です。よその大会に行くと、90歳以上でプレーしている人もいるし、大会によっては最高齢の人に賞品があったりしますから、まだまだ頑張りますよ。

取材日:平成29年11月1日

庭で草取りをしていた私に、ふと話しかけてこられて「庭の整理しょうるんのー。今日は日立のOB会があった帰りで、こんな話もしたんで」と広島でのグラウンドゴルフ大会の写真を見せてくださった近藤さん。立ち話にしておくのはもったいない!興味深い話が次々に出てきて、ついに取材を申し込むことになりました(笑)。

一造船マンとして40年間、日立造船因島工場の旋盤工としてスクリューのシャフトなどを作っていたという近藤さんですが、生涯にわたり様々なスポーツを通して人生を楽しむ姿がとても活き活きされていて、スポーツが人を元気にする力を深く理解している、まさに心も身体も「スポーツマン」でした。

近藤さんの住む因島三庄町には、かつて「因島スポーツセンター」があり、ボーリング場、卓球場、ゴルフ練習場(海への打ちっぱなし)、アーチェリー、ビリヤードなどが出来る最新型の施設でした。そして平成14年にできた、総合型地域スポーツクラブ「NPO法人しまなみスポーツクラブ」の本部もあります。健康な体力づくりを通して、元気ある老後の自立を可能な限り持続させたいとの思いで、現在200人強の会員が参加されています。

世界に誇る技術を磨いてきた造船マンと、その町で栄えたスポーツの文化。これからも和気藹々とスポーツを楽しむ文化を大切に受け継ぎたいと、将来はグラウンドゴルフで全国大会を目指してみたいな(笑)と、私も心から楽しみに思いました。

聞き手:岡野八千穂(しまなみ人編集部)

筆者紹介

岡野八千穂
岡野八千穂しまなみ人びと発起人

18歳まで因島で育つ。三庄小、三庄中、因高、関学出身。大阪にて就職後、兵庫県立淡路景観園芸学校を卒業。28歳で因島に帰り、因島市役所広報担当の臨時職員に。趣味はダンスと畑作業。

★ダンス歴★ 3歳から18歳まで、平櫛バレエスクール因島教室(因島市民会館)に通う。体が強くなるようにと両親が始めさせてくれたおかげでダンスが大好きになる。16歳から2年間、金山幸美先生(因島三庄町)のモダンダンス教室にも通う。その後関西の大学でチアリーダー部に所属。20歳から5年間、泉克芳舞踊研究所(大阪谷町四丁目)にて泉克芳先生に師事。現在は、コミュニティダンススタジオStudio SHIP(因島三庄町)にて、ピラティスとバレエの普及に努めている。

★畑歴★ 小さいときの家族総出のハッサク詰みが原風景。因島フラワーセンターに勤務した経験を元に、因島の除虫菊を広める活動もしている。

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