謎その8「村上水軍”村上氏”の起源と系図はどうなっているの?」

因島村上氏の家紋

因島村上氏の家紋

村上水軍”村上氏”の起源には諸説あります。

その系図の代表例を見てみましょう。

清和源氏村上流系図

清和源氏村上流系図 南北朝時代の末期、桐院公定とういんきみさだが作成した
尊卑分脈そんぴぶんみゃく(源平藤橘等主要諸氏の系図で、諸家の系図中、最も信頼できる良書とされる)によると、村上氏は清和源氏頼信流と伝えられ、頼信の次男頼清の嫡男仲宗の代に村上を称し始まったとされている。

仲宗の次男顕清は、兄唯清の太上天皇(白河上皇)呪咀事件に連座して信濃に配流され、村上郷に居住したが、その顕清の子息のうち、為国が”信濃村上氏の祖”となり、弟の定国が伊予に下向して”伊予村上氏の祖”となっている。【図1】

伊予村上氏の祖”となった定国は、保元の乱の後に、瀬戸内海に進出した。

まず定国は淡路島に渡り、そこに左近将監宗清を残して西に下り、讃岐の塩飽島に居住した。

しかし、平治の乱で平家が派遣を握ると、兵庫の大輪田泊に近い海域は平家の水軍が支配したので、さらに西遷して永暦元年(1160年)に伊予の越智大島に移った。

すなわち、この定国を祖とする伊予村上氏が”村上水軍”である。

村上天皇を祖とする系図

村上天皇を祖とする系図 村上天皇の皇子具平親王を祖とする系図【図2】で、能島村上氏系図が最近まで因島水軍城にあったが、この系図であった。

因島の各地域の村上氏の系図もこの系図が多く、「先祖祭り」には村上天皇と書いた掛け軸を掲げて祭祀を行っていると聞く。

 

清和天皇と村上天皇と両系列の合同説

信濃村上氏の菩提寺である村上山満泉寺に伝わる系図 信濃村上氏の菩提寺である村上山満泉寺に伝わる系図【図3】によると、

「源頼清の妻修理姫は村上天皇の皇子為平親王の子右兵衛督憲定の娘で、幼名を五明丸と称した頼清はこの娘を娶って娘婿となった。」

とされている。為平親王は父村上天皇から村上姓を賜っていたから、頼清は憲定の婿養子になることによって村上姓を名乗り村上源氏の祖となった。

頼清の子が仲宗である。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

謎その8「村上水軍”村上氏”の起源と系図はどうなっているの?」”へ17件のコメント

  1. 呑舟 より:

    能島 村上武吉の家老 大野兵庫について調べています。
    八代島(現周防大島町へ同行し 明治の村上兼助まで仕えて
    います。秀吉の四国攻めの前に来島の代表者とともに、武吉の名代として、姫路で秀吉に味方せよ との話に、来島村上と違い断固 断った人物です。もっともこれがもとで、かたや九州の大名家、野島村上は 武吉 大野兵庫とも切腹命令が秀吉から下されたが、毛利・小早川のとりなしでなんとか命脈は繋がったのだが。秀吉時代は危険なため、友田治兵衛と変名してます。なにかわかりませんか?武吉の娘を嫁にしたと大野系図には書かれています。さりながら野島村上系図にはそのような女が書かれていません。なにか手がかりがありませんかね?

  2. 木島 勇 より:

    先祖が長野、木島平 の領主でした。
    木島家の伝えで木曾義仲の末えいと言われています。
    源義仲 信濃挙兵の配下で四国の来島村上水軍として
    参戦して今の長野、木島平に来た時からその地を
    納めていて1185年、総地頭をしていました。
    来島村上水軍と私の名字、木嶋と来島との関係が
    分かれば、うれしく、思います。
    後一つ、立ち泳ぎが伝授されました。

  3. 義継 より:

    父と祖父が愛媛県出身で信じがたいんですけど二人とも先祖は平氏で伊予村上氏とつながりがあって、家紋が五三の桐だと言っていました。
    私の苗字の髙橋と何か関係があるんでしょうか?
    ちなみに祖父は愛媛県の大島の宮窪という所で生まれたそうです。

    1. 呑舟 より:

      宮窪の高橋姓なら能島村上の一門ではないかと思います。
      村上元吉と正木(松前)で一緒に討死した中にいたような。
      墓は竹原市珍海山山麓にあったと記憶します。

  4. きよちゃん より:

    はじめまして♪
    ここ、動いてないみたいなんですけど(汗)
    取りあえず、ここを見つけたのでコメントを残しておきます。
    と言うのも 私の父方は村上姓で祖父母は愛媛の越智郡出身です。
    昔、父の葬儀の時 父の叔父(祖父の兄弟)が
    「うちの祖先は村上水軍だ」と言っていたのを
    ずっと心の中にありました。
    そして、今年になって大河ドラマ平清盛が始まったのを機に
    自分のルーツを調べてみたくなって色々とネットで
    調べています。
    何故?大河なのか??
    平清盛は私が住む呉(音戸)と深い関わりがあります。
    今回、ドラマ館を訪れた時、平清盛(平氏)の
    家紋が揚羽の蝶だと知り、私の母方の家紋も揚羽の蝶で
    平氏とゆかりがあるのではないかと思い始めました。
    平氏と水軍?私のルーツは運命的なものなのかと思っています。
    村上水軍は因島・能島・来島と3つに分かれていたんですよね?
    ここに書かれてる系図を見ると伊予の村上水軍が
    始まりだと言うことですが・・・
    伊予の越智大島って今の越智郡のことですよね?
    じゃあ、私の祖父母の先祖が村上水軍の始まりなのかな?
    でも家紋は五三の桐なんです。
    上と言う家紋は因島村上水軍だけの家紋?
    家紋の意味がちょっとわかりません。
    それと村上水軍って源氏の出なんですか?
    平氏に仕えていたのではない??
    村上水軍と平氏って最後まで敵???
    平清盛が生きていた時代と村上水軍って重なっている?
    自分のルーツをまだまだ知りたい衝動に駆られて
    ここに書いてます。

  5. ひーくん より:

    はじめまして。
    私の父、母ともに因島出身で母も旧制は村上でした。
    祖父、父、母ともに自分達は村上水軍の末裔だと言っていましたが、どうやら嫡流ではなく分家らしいのです。
    どこから本家と分家に分かれたのか判りませんけど、
    家系図らしいものも見当たらないので信憑性は???です。
    そういえば吉本興業の村上ショージさんも因島(だったかな?)出身らしいですね。

    1. 呑舟 より:

      因島村上の分家は数多くいますよ。
      関ヶ原の戦いで敗れた毛利家に従った因島村上宗家は周防大島三蒲地区に
      分散して領地を貰い毛利家御船手組に組み入れられます。因島に残った
      親族の多くは帰農したとされます。

  6. 幸兵衛の娘 より:

    はじめまして!
    こんにちは!
    私の実家(村上)の起源を知りたくて、ここに辿り着きました。
    父方は広島に近い寄島町(岡山県)の出身です。
    父からは、
    「うちの祖先は村上水軍だ」
    とずっと言われてきました。
    ただ、家系図が明治維新の際に行方不明になり(誰かが売った、とか…)はっきりしません。
    岡山の本家とは訳あって縁が薄いので、詳しいことが聞けません。
    家紋は『違い矢』です。
    でも『違い矢』は調べたら、村上家の家紋として出てこないんですよね…
    源氏の家紋としてはあるようですが、全くもって謎です。
    この血がどこから来たのか、知りたいのですが………

  7. 村上利康 より:

    皆さん、やはり村上水軍の出なんですね。最終的に熊本出身になってしまいましたが自分の爺さんも何を隠そう愛媛の今治市出身ということでそうあの村上水軍の能島村上氏が祖に当たるわけなんですね!ただ爺様の家計がどの当たりかはまだ探ってませんが(笑)近々、我が祖先の能島村上氏を探りに愛媛県まで行ってみたいと思っています。きっと何かわかるかも知れないですね。では!

    1. 呑舟 より:

      熊本なら、肥後細川家へ仕官した村上海賊の一派がいます。
      有名なのは
      村上隆重(宗勝)
      (~延宝2年80歳卒)墓龍心寺裏手
      出家し広世、毛利家直臣無給通(三百俵)
      小早川家⇒細川家(13000石)⇒堀田正信家⇒浪人(近江大津)
      ですが、
      熊本に残ったのは
      肥後細川藩村上家(景尚カ)」
      二百石 (於豊前小倉御侍帳)
      村上吉之允(吉入)
      (1)供之物・御扈従与也
      (2)御小姓組衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
      (3)長岡帯刀組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
      の一族です。
      ですから細川家家中に村上海賊の血筋は多く現存さいますよ。

  8. ちゅう子 より:

    はじめまして。
    先日NHKで村上水軍についてやっていました。
    それで興味を持ったのですが、
    私の祖父は因島市出身の柏原という姓です。
    家紋は丸に揚羽蝶。
    村上水軍だったと言っていましたが、分家、家来、色々ありますよね。
    残念ながら祖父は他界、父も東京生まれ育ちで祖先について興味は無しで、詳しくわかりません。村上水軍においての役割などご存知であれば教えてください。

  9. iyonsanshiro より:

    私も今治市の生まれです。祖母から聞かされていたのですが祖先は河野家だと聞いています。村上水軍との関係を知りたいのです。以前から気にはしていたのですが、村上海賊の娘を読んでそう思うようになりました。また、越智の性と村上との?がりも知りたいのです。

    1. 呑舟 より:

      河野家と村上家の関係は「予章記」と「予陽河野家譜」を参照して下さい。

  10. タツノオトシゴ より:

    岡山県出身で性は柏原です

    家系図に村上六十郎という名前があり彼は村上海賊と深い関わりがあるらしいです。私は末裔とかに当たるのでしょうか笑

  11. 清水優 より:

    母方の姓が村上で村上水軍の末裔と聞いています。戸籍を辿ると、村上勝造(明治
    43年没)が大正13年12月2日に、広島県御調郡中庄村丙24番地5より、三男村上徳次(明治20年生)を伴い、大阪市東区東雲町に転居したことが判明しています。上記村上勝造及び彼を遡る家系について分かる資料等をご教示頂きたいのですが。

  12. 村上正建 より:

    村上水軍歴史保存会
    2代目会長村上正建です。
    大いに研鑽致しましょう。

  13. 呑舟 より:

    熊本なら、肥後細川家へ仕官した村上海賊の一派がいます。
    有名なのは
    村上隆重(宗勝)
    (~延宝2年80歳卒)墓龍心寺裏手
    出家し広世、毛利家直臣無給通(三百俵)
    小早川家⇒細川家(13000石)⇒堀田正信家⇒浪人(近江大津)
    ですが、
    熊本に残ったのは
    肥後細川藩村上家(景尚カ)」
    二百石 (於豊前小倉御侍帳)
    村上吉之允(吉入)
    (1)供之物・御扈従与也
    (2)御小姓組衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
    (3)長岡帯刀組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
    の一族です。
    ですから細川家家中に村上海賊の血筋は多く現存さいますよ。

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