恩師 山本康正先生
 昭和33年4月1日朝、私は広島を離れ、山陽本線備後尾道駅で下車、駅前桟橋から土生丸という木造のポンポン船に乗り、一路、新任地の因島へと向かった。船が速度を上げれば海水が甲板を洗うような小さな船だった。重井沖を過ぎて西浦付近から、仰ぎ見た青影山の青々とした松の翠と山麓に広がった蜜柑畑の美しさに感嘆しながら、宇和部で下船し、右手に木造の因島市庁舎を見て、湊橋から郷川に沿って大山神社の前を通り、因島高校へと向かった。郷川は小川ながら、流れは清冽で(当時、夏の宵には蛍が飛び交っていた。)天理教の横には水源池があり、大山、山麓の対潮院まで水田の田圃がひろびろと広かっていた。そこから眺めた岡の上の因島高校は、丁度夕暮れ時でもあったので、まさに「赤い夕陽が 校舎を染めて、楡の木蔭に 弾む声。あゝ あゝあ 高校3年生。…」当時流行した舟木一夫の学園ソングそのままの風景が展開していて、遠く運動場からは生徒達の明るい歓声が響きわたっていた。

 その頃の因島高校は、普通科2・商業科1・生活科1の小さな高校で、他に因北分校、因南に機械科、佐木島に鷺浦分校があり、毎年6月には農繁休暇もあった、典型的な田舎の高校だった。全国的にはまだ高校進学ブームの起きる前の、中学生が産業界から金の卵としてもてはやされた時代であったが、しかし、因島高校の生徒達の向学心と、大学進学意欲は驚くほど旺盛で、卒業生達は、東大、京大、阪大、九大、名大、東北大等の旧帝大系の国立大学へ、毎年複数名が進学し、早慶、明治、法政などの東京6大学や、関西の関々同立などの有名私立大学へも毎年20から30名を越える生徒達が進学していく、広島県東部では屈指の進学校だった。
 私はその年の4月に、それからの3年間、古典の授業を通して古文・漢文を教えることになった一人の高校生と出会った。それは、やがて、今を時めく東京都知事・石原慎太郎氏の出身母校である一橋大学の「副学長」にまでなった、土生町出身の寺西重郎君である。
 授業は、一年の一学期、古典文法と漢文訓読法の読解演習が中心であったが、二学期には学んだ古文の文法知識を活用しての古典読解が中心となる。万葉集から始まり、竹取物語、伊勢物語へと進み、物語の冒頭の東下りの段で。
 「むかし、男ありけり。その男、身をえうなきものと思ひなして、京にはあらじ、あづまの方にすむべき国もとめにとてゆきけり。」の部分を、私としては、多少ふざけた軽い気分で「昔むかし、一人の男が居ったとサ。その男は……」と冗談めかして通釈していった。すると、じっと聞いていた寺西君が「先生。」と手を挙げて、「ちょっと質問しても良いですか。先生は今、最初の部分を『昔々、一人の男が居ったとサ。』という風に御伽草子風に通釈されたが、そののような訳し方は、この物語の通釈としてはふさわしくないのではないですか・ここに登場する男とは、歴史上、奈良の平城京から、延暦13年 (794年)に山城国平安京(京都)へ遷都した第50代桓武天皇の皇子で第51代平城天皇の皇子・阿保親王と桓武帝の皇女伊都内親王との間に生まれた皇子であり、皇位継承の争いに巻き込まれることを避けて祖父の平城帝から在原の姓を賜わり、在原業平と称した、まさに由緒正しい貴公子で、単なる名も無き田夫野人ではない。
 時の関白藤原良房の娘で、後に第56代清和天皇の女御となった藤原高子(たかいこ)との恋を裂かれ、世を厭い侈んで京の都を捨て東下りの流浪の旅に出たものである。
 ここの表現は「その男」と第三者的に書かれているが、作者の業平自身が自己を客観視し、三人称の形式で旅日記を書いているのだから、そんな御伽話風に冗談めかして通釈するべきではない。大袈裟に言えば、すぐれた古典文学に対する冒涜的な対応、態度ではないか。この業平の日記物語が、すぐ後に登場する紫式部の源氏物語や、和泉式部日記にも「在伍中将の日記」「在伍が物語」として紹介されているのを見ても、平安時代からすでにすぐれた文学として高く評価されていたことがわかる。
 もっと古典文学の真髄や本質を深く認識して正しく通釈してゆくことが必要なのではないか。」と言ったような趣旨の発言だった。
 私は一瞬、ポカンとして彼の説明を聞いていた。これが高校一年生の発言か、と驚嘆すると同時に、彼に畏怖の念すら抱いたのを覚えている。まさに彼の言う通りである。後に経済学者として大成した寺西君の「栴檀は双葉より芳し。」というか「負うた子に浅瀬を教えられる。」と言うべきか、私は直感的に彼が古典文学に対して幅広い知識と深い洞察力を身につけていることを思い知らされたのである。私はそれ以後、彼との古典の授業では一所懸命に教材研究してゆかねばならなかった。それでも彼の鋭い質問に答えられないことが、多々あった。
 2年次には、難解な漢文訓読が多くなり、図書館の司書の織田安子さんに依頼して、中国の古典文学、史記の専門書を何冊か出してもらって、午後の古典の授業に備えて昼の休憩時間に図書館で勉強していたら、そこへ寺西君がやって来て「先生、何をしているんですか。」と声をかけてきた。私は正直に「お前がむつかしい質問をするんで、勉強しよるんよ。」と言うと、彼は「ふ~ん、そうですか。そうすると僕達と先生との知識の差は、昼休憩の一時間の差でしかないんですね。」と言われてしまった。まさに「ギャフン」(その通り)である。
 私は、この彼との三年間の古典の授業を通してそのやりとりや交流が、私の高校教師としての其の後の有り方に大きな影響を与え、しかも教師として育ててくれたと思う。この時に体得した教科指導の有り方、生徒指導の仕方、進路指導の実践などが、私の大きな自信となった。其の後、私は因島を離れ、三原、尾道、福山と県東部の進学校を転勤し指導して廻ったが、彼との交流で培った教科指導法、生徒指導法をそのまま実践して大きな指導成果を挙げて来たと自負している。
 それから50年後の今年は、日本の古典文学の金字塔である紫式部の源氏物語誕生の千年紀に当たることをマスコミが宣伝しているのを見聞しながら、私の青年教師時代を想い起こし、当時の因島高校には、未熟だった教師を育て、一人前に鍛え上げる、すぐれた生徒達が沢山いた、素晴らしい学校であったことを、彼等に対する畏敬の念と共に懐かしく思い出すのである。かく言う私も来年は喜寿を迎える年となったが、まだ元気である。