2007年度因島高校同窓会実行委員会
2007年昭和41年42年正同期会
実行委員長 中山健一(昭和60年卒)

 ”懐かしい思い出・大切な仲間”をスローガンに、2007年度同窓会が開催されてから、早半年。昨年9月には、次年度への引き継ぎを済ませ、全力疾走した3ヶ月間がはるか遠い昔のように感じています。運営に携わった同期の皆様本当にありがとうございました。ご参加いただいた同窓の皆様方、少しは楽しんで頂けましたでしょうか??
 当番回生?!。それは約2年前、中学同級生で厄払い同窓会を楽しく行っていた前後に突然目の前にやってきた。早速思い当たる数人に声をかけてみるが、色よい返答は全くない。どうやら到底出来そうにない。そのうち、どうやったらやらずに済む方向に持っていけるか、いつ白旗を揚げるかを考えるようになっていた。そんな当時を思うと、今考えてもてもよく開催までこぎ着ける事が出来たな~と不思議にも感じる。

 「そろそろやらんといけんのじゃない?!」天の声、いや同級生の声に後押しされ、しぶしぶ動き出したのが5月中旬。ここからの3ヶ月間は、あせりと不安いっぱいの中で、日々の活動をこなしていかなければならない重圧がのしかかり、心身共に厄年にふさわしい最悪の状態をむかえる事となります。
 さて、それでもやらざるをえない状況に追い込まれた3ヶ月間で何より大変だった事は、2点ありました。それは、1.金集め、2.人集め。
1.実際、どのくらいの予算があつまるのか、当日ぎりぎりまでわからない。目処がたち、なんとか赤字にならずに済むと胸をなで下ろしたのは、開催の3日前。不安である。「大丈夫、沢山集まるから」一人あたり4~5千円集めていた時代の説得力のない言葉に、ため息する。参加をお願いするはずの学年幹事ほとんどの方を知らない私をはじめ今年のメンバーでは、お金もスムーズには集まらない。気持ちよく対応して頂いた方も沢山いました。反面、どういった方々が同窓会組織に関わって来たかが多少なりともわかるようになり、その後、親しくおつきあいをさせていただくようになったのは、ありがたい事でした。
2.人集めでは、“島が沈む”造船不況が本格的に始まった時代で日本各地に散らばってしまい、島に残ったメンバーだけでは、以前のような執行部があり各地区部会があり、持ち帰って雑務をこなす組織、なんて不可能。0人や一人の地区も多くあり、実際に動いた実働部隊は10人前後。そのメンバーが、今までなら各地区に持ち帰ってやっていたような雑用まですべてこなさなければならない。企画を練り上げていく事は後回しである。いきおい基本は前年度踏襲、省けるものは省くとなってしまう。 このように8割以上のエネルギーを、人集めと金集めに費やし、本来、楽しむべきかつ大切なはずの企画などがおきざりになる。
 当日、役割分担でも、当然、島に残っている実行委員会のメンバーだけでは、足りず、帰省してくるメンバー数名に依頼。「詳細打合わせは同窓会前日。それまではすべて任せるから準備の方宜しく」なんて勝手な依頼にもこころよく引き受けてくれた同級生それぞれに、今あらためて感謝してます。
 ピアノ生演奏、BGM、立派な酒処、デザートメロン、とてもにぎやかに盛り上がったお楽しみ抽選会、よかったのではないかな~!!特に朝早くから、おのおのの炊飯器を持ち寄り、心を込めて握りあったおにぎり、女性陣のがんばりに感謝感謝です。
 その後の学年同期会は、大変盛り上がり、中締めの挨拶中に突然の申し出。新幹事も、決まり、4~5年後の再会を約束して閉会となりました。その日は、2次会3次会4次会……終わる事なく続いていったようです。
 また余談ですが、8月水軍祭りでは、急遽大松明を2年続けて担ぐことになり、助太刀が必要。急な呼びかけにもかかわらず、多数の同期メンバーが呼応してくれました。これも当番回生としての集まりがあったからこその出来事ではないかと思います。紙面をお借りして、あらためてお礼申し上げます。
 こうして、心に残ったものは、小さな島での人とのつながり、特に同級生のありがたさ。最初は、半数以上顔も知らないメンバーが、同級生というだけで集まってくれて、人から人へ和を、広げてくれた。
 昨年中は、地区によっては、3年越しの厄払いの集まり行事がまだ残っているようで、まだまだ忙しそうにしていました。あれから1年。今年の夏には、島のメンバーだけでも集まりたいと勝手に思っています。
 最後に、因島の宝、島にひとつの因島高校が、これからもより一層繁栄し、いつまでも同窓会のよりどころとなってくれる事を願ってやみません。また、今年2008年度因島高校同窓会が、新たな展開をむかえながら開催されることを楽しみに……。

鍵の伝達式

楽しい抽選会